赤子は垢子
赤ん坊の事を昔はアカゴと呼び、今は赤子という漢字があてられている。
確かに赤ん坊は産まれてきた時は赤みを帯びているので、違和感なく受け取れる。
しかし、本来のアカゴは本当に赤子だったのであろうか。私が思うに、アカゴは本来、垢をまとった子という意味を込めて垢子だったのだと思う。
垢とはご存知の方も多いだろうが、身から出てくるものである。なので余計なものと受け取る方が多いかもしれない。しかし、それは本当に余計なものなのか。
私が思うに、垢とは余計なものではなく、身から出てくる錆みたいなものであり、もっと言えば、錆も使いようによっては使い道はあるという事である。
私たちは全て、同じところから始まっていると思う。始まりは全てひとつのところから、そして様々に枝分かれし広がっていった。これはありとあらゆる全てを指し、人に限らず、人になる前、人になる前になる前、それを手繰れば全てはひとつに行き着くという事である。
そのひとつに行き着いた先が、本来は無垢だと考えられる。考えが浅く狭いと、そうは考えられない様になっている。全ては無限に繰り返しているように感じるからである。
ひとつに行き着いた先が本来の「無垢」であり、それを自分自身で0から紐解ける様な感じになり、自分自身で産み出せる様な感じに成る事が、本当の意味での悟りの境地に至る事であると感じる。これをもって初めて、理を解するとして、理解とされたと考えられる。昨今使われている理解という言葉は理解ではなく、分かるか解るとした方がより適切である。
つまりは赤ん坊は、産まれてきた時に既に色んなものを人それぞれ引き継いでいる事になり、これは本来の自分ではなく、自分が纏っている垢の様なものであるということである。
垢とは、人間に説明する上で解りやすい様にあてた字にすぎない。本来は垢ではない、個性でもなければ才能でもない。そういう言葉に囚われずに、思考に囚われずに感じる事で、そういうものだと感じ取る事ができる。言葉遊びをすれば、感じ取る事で、漢字取る事ができる。漢字にあてられた意味に囚われてはいけないという事である。思い込まない決め付けないである。
感じ取るは漢字取る、漢字に込められた意味に囚われず言葉そのものが本質的に何を云わんとしているかを感じ取ることが肝要である。ちなみに感じるは漢字流になり、漢字を流すとなり、同じ様な意味である。
そもそも漢字はどう生まれたのか。誰かが何かを見たり聞いたりして、それに当てはめて作られたものである。人間が作ったものである。人間は完璧か、絶対に間違わないか、悪用しないか、これらを踏まえれば、漢字にあてられた意味が必ずしも適切とは限らないし、漢字そのものが適切な字とも限らないということである。
これらは私の言葉であり鵜呑みにしてはならない。
思い込まず決め付けず、人を想い、自分も想い、全ても想う。
思いやりや真心や愛といった概念も、この想うから派生している。
自己犠牲の精神も肝要である。しかし自己は犠牲にしない方が良い。そうならない様に良い生き方、ちょうどいい生き方を心がける。自己を犠牲にさせる様な存在のヤクにたつ必要はない。
これらも私の言葉である。鵜呑みにすれば私の意のままと云える。マインドコントロールとも云える。
これらは貴方の中の引き出しに入れておけばいい。いずれ必要になったと感じた時、参考にする程度でいい。基本は自分で考えることである。人の言うとおりしてはいけない訳でもない。囚われなければいいのである。囚われても囚われ続けなければいいのである。
矛盾している様で矛盾はしていない。今ある数学が全てでもない。
1+1=2とは限らないということである。
分かる様になれば分かる。解る様になれば解る。
理解できる様にならなければ理解はできないのである。
感じたら考える。考えたら感じてみる。休みたければ休めばいい。まだやれるならやってもいい。自分次第である。自分が背負う責任は概ね自己責任であり自分次第でどうにでもなるということである。それ以外の影響は人それぞれである。何かをすれば何かが返ってくる。何もしなくても何かが返ってくる。影響とはそういうものである。
全ては私の言葉であり貴方の言葉ではない。貴方がこの言葉を理解せず用いれば、相応の何かが返ってくるということである。
くれぐれも悪用なきよう。貴方が悪用と思わなくても悪が潜んでいる事もあり、貴方が善用と思っていても悪が潜んでいる場合もある。
善や悪に囚われず、感じて考えましょう。そして感じましょう。・・・
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