映画『大怪獣のあとしまつ』鑑賞雑記
『大怪獣のあとしまつ』
(【監督・脚本】三木聡 松竹・東映2022年2月公開)を観た。
作品冒頭の時点で持った印象は、あぁ、庵野監督作品が世に出て以降の作品だなぁ。というものと、押井守監督が好きそうな題材のような気もするけど、押井監督がこの題材で作っていたら、どうなっていただろう?というものだった。
円谷のウルトラ・怪獣シリーズの魂を松竹と東映がそれぞれの歴史と感性でもって料理したら、タイトルや予告編から受けるであろう能天気さとは打って変わった正真正銘の感動的特撮怪獣映画が出来上がっていた。
終わってみれば、間違いなく特撮怪獣映画だった。
また同時に、昨今のコロナ災禍にかかる政府対応や世界情勢に対する制作側の想いも随所に織り込まれているのが見て取れて、ただならぬ容量を持った作品だとも感じた。世間で言われる「良い意味で期待を裏切られた作品」とも称すべき傑作だと思う。
ヒーローは、最後まで超絶クールでかっちょよく、正義感と熱意と悲哀を背負ったきっちりしたヒーローになっている。
豪華なゲストを迎えての百花繚乱的な脇役配置は、脇役にするには惜しいくらいアクが強くて味のある脇役に仕上がっている。
ヒロインは、これぞ東映!と言いたくなるような、華があって頭が切れて、おまけに度胸も行動力もある。
一方、庵野監督が映像表現において重要であると主張する「画作り」の精神が、入魂の画作りとして今作の随所で見て取れる。各カットのアングルやレイアウト、照明効果やカット割り等々の編集により、スピード感と緊張感、物語の緩急もあって演出が見事である。
実在の人物や事件・事故、過去の特撮番組やテレビ番組等々の登場人物をモチーフとしたと思しきキャラクター設定や空間演出はここにおいて更に洗練されている。特撮作品でありながらもしっかりとした人物の心理描写を描きながら、ギャグマンガやナンセンス地下劇場を見ているかのような錯覚をも感じさせて、まったく退屈させられることが無い。
1980年代以前ではなかなか映像化も難しかったであろう、光と爆発の表現も2010年代以降からのCGI技術の進歩により、見ごたえある仕上がりになっている。また、40年ほど前であれば、ここまで作り込んだミニチュアセットを映したいという想いから、いきおい引きのレイアウトが多くなってしまい、かえってミニチュア独特のさやおもちゃっぽさや、画面の薄っぺらさが強調されてしまうことで興ざめとなるところであろうが、今作においては、ここぞと言う時以外は、怪獣本体や、周囲の街並みの全景を映さないというのもまた潔い。そんな中で時折挿入される全体像だからこそ、怪獣の巨大さと異様さが強く印象付けられるのだとも言えよう。
またこれは同時に、怪獣のあとしまつに直接かかわる現場の人間ですら、作戦展開エリアの全体像を逐次俯瞰して動いているわけではなく、そのほとんどは、自分自身の目に映る光景と、自身では直接確認のしようのない外部情報の中だけで動いているのだ、ということを示す演出的意味においても成功していると思う。
また、重火器や航空機、車両のアイテムも充実しており、宮崎監督や押井監督が飛びついてきそうなエッセンスに溢れている。
作品中の随所に盛り込まれたくどいほどの一発ギャグネタや下ネタ(笑)、2022年現在の日本という国が置かれている世界的状況もさりげなく、かつ、分かりやす過ぎてかえって鼻につくくらいの大ボリュームで畳みかけるように差し込まれるダジャレ(笑)、政治中枢における危機管理能力や官僚組織的責任回避が常套化している状態などが揶揄や小ネタに織り込まれていて、分かる人には分かるネタのみならず、詳細なオチは分からなくても面白く見ることができるのは好感が持てるし、世情を思い起こしてセリフの裏にあるものを今一度考えてみると更に面白さに深みが増していく部分など、実に小気味よい仕上がりだと感じる。
加えて、ストーリーが進むにつれ、シリアスさを増す中においてはギャグっぽい部分は薄まっていくのが世の常のように思うのだが、今作においては、ギャグセンスがぬるくなることもなく、ピエロ役やはピエロ役を最後までブレないで通しているところも潔くも心地よい。この辺りも、最初はギャグパロディ的に始まっていながら、終盤に至るにあたって重厚な感動物語になっているにもかかわらず、最後の最後までギャグセンスを盛り込んでおくのを忘れないという往年の庵野作品のエッセンスが生きていると感じた。
もちろん、どうしようもない緊急事態においても、なんら具体的な手法を自分たち自身で生み出すことができず、愚見を重ね、会議は踊るばかりで他力本願的な国の姿を遠くから揶揄していると見れば、もはや、笑うに笑えないほどのチャップリン的喜劇であろう。
また、コロナウィルスの感染拡大に伴う、経済活動・日常行動自粛によって生活様式が変わってしまったことを示す言葉に「ニュー・ノーマル」ないしは「新しい日常」という語が用いられることがある。そう、今作においても、古くはチェルノブイリ原発事故や東北の震災に端を発する福島原発事故における立ち入り禁止区域の設定や放射線被害・いわゆる風評被害等々の「異常事態が日常生活の一部となっている世界」が語られる。
これが、スクリーンを見る人々をして、作品における「現実感」をいやがうえにも感じさせることになるのだ。しかも、事態の深刻さがどこまでいっても、政策の中心にいる人々にとって、いわゆる一般国民は、「国民」というマスな存在でしかないことを描いている点もまた痛烈である。
作品のネタばらしにはならないとは思うのだが、これまで地球人の攻撃を一切受け付けなかった大怪獣が、巨大な光の出現と同時に打倒されてしまったという描写と、物語冒頭で示される「デウス・エクス・マキナ」のメモ。そして、物語中盤で語られる「光と共に消えた青年が3年後に舞い戻ってきた」という部分だけで、もう、ある程度以上の素養を持つ方々にはピン!とくるものがあろうかと思う。
だがしかし、これほど分かり易い描写の連続なのであるから、実は、物語の登場人物たちもまた、「彼」の存在についてうすうす気づいているという描写がまたニクイ!
怪獣の始末までの時間が迫る中、かつての同僚でもあり、ライバルでもあり、上司と部下という組織体系に組み込まれたキーマンは、この一大作戦において「あいつが何者かを確かめる」チャンスでもあると考え、また、一方のヒロインは、これまた「さよならを言いに来たんでしょ?」と、過去から続く彼への想いを優しくも悲哀に満ちた言葉に込めて尋ね、自身も、政治の中枢に潜り込むことによって手にした機密情報を使うという捨て身の作戦でヒーローの次の行動を既成事実化するためのサポートをするのである。
そして、ヒーローは、作戦が全て終了したら全てを語ると言い残し、政治的駆け引きの結果で組織力から排除されてしまった立場に身を置きつつ、もはや誰が味方で誰が敵なのかわからない状況の中、宇宙戦艦ヤマトにおける真田さん的な形で準備されていたラストチャンスを両肩に背負い、単独、目標に乗り込んでいくのだ。なんと燃える展開!いや、エモい展開であろうか!!
また、ヒーローを取り巻く恋模様は、それぞれが権力中枢に近接しているヒロインとライバル同士が夫婦であることで、政治的駆け引きも恋愛模様も泥沼的要素を煮詰めていきながら、一国の未来、それは言うまでも無く、何万もの国民の生命と生活が懸かっている大作戦のさなかにおいても、やはり男女関係のもつれというか、悲喜こもごもによって、これほど重要な問題や機密が権力装置内部においてどんどんやり取りされていく描写というのも、現代社会の政治中枢内部で起こっているあれやこれやを想い起させ、歴史の皮肉というか、特撮怪獣映画においてここまで描くのか!?という人間臭い描写が印象深い。
そして作品を見終わった後、一匹の怪獣の死体をどうするかでてんやわんやの大騒ぎをする国家の意思決定機関の構成員と、権力の下で動く実働部隊を通じて見えてきたものの中に、コロナウィルスの感染拡大で見えてきた世界の姿と同様のものが見えてくることが興味深く感じる。やはり、映画は、作品が世に出された時代の時代性・空気感とでもいうべきものを表わしているものなのだ。物語の中に散りばめられた様々な要素を汲み取ることができれば、この作品が単なる絵空事ではなく、どこかで、今現在自分自身が暮らしているこの社会と通じていることを感じ取ることができるのである。
コロナウィルスという人類共通の敵が出現したことによって、確かに、一部では確かに、国境や民族、企業利益や過去の歴史的経緯を超えたところでウィルス撲滅、困窮者救済という部面において協業が実現した部分はある。が、結局、政治・権力の中枢やある階層以上の富裕層においてはコロナ蔓延以前とさして変わらない生活が続けられているし、世界的大企業も一時的には収益は落ちたとはいえ、ほどなくして業績は回復し、史上稀に見る増収増益の連続である。再起が困難なのは、ある時は物理的な被害を被り、またある時は国益のために看過される少数者としてカウントされる(零細企業組織や個人レベルで小さな商いをやっているような、世界経済に影響を与えるほどの資産も持たず、大企業や権力者のグループに属さない)大多数の市井の人々なのである。
結局、コロナウィルスであろうが、大怪獣の出現であろうが、主導権を争うのは大国や権力者ばかりで、名も無き人々は言われるがままに、住み慣れた地を去ることしかできない…。という現実の側面が描き出されていることに想いをいたせば、これほど悲劇的で問題意識に溢れた作品もないのではなかろうかとも思う。
故に、デウス・エクス・マキナなのである。
こじれてもつれてからみあい、もはや混沌として出口の見えなくなっているこの閉塞感に満ち満ちた世界を、一瞬にして終幕に導いてくれる存在。それを待ち望む空気があり、そんな空気を映像化したものだとしたら…。ある意味、これは、恐ろしいまでに波乱を含んだ作品であるとは言えないだろうか。光の使者は、あらゆる災難を一瞬で消し去ってくれる正義の使者なのか。あるいは、この淀んだ世界を一掃してしまうインドラの雷のような存在なのか…。鑑賞後の印象は複雑である。
最後に改めて。
タイトルから受ける印象は、ギャグっぽいお笑いパロディ映画的なものだが、往年の特撮怪獣映画作品や、仮面ライダー、戦隊シリーズ、そして、ウルトラシリーズのファンであったり、作品世界を支持してきた方々には必見の一本だと思います。
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