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第69回日本伝統工芸展

 日本伝統工芸展を見終わり、帰路の電車のなか(18時54分現在)。疲れた。とても疲れた。久々に都心へ出て、そこそこの人混みを歩いたら、それだけで疲れた。美術鑑賞も久々で疲れた。特にこの展示は作品の数が多いので、通覧するだけで体力を消費する。やはり自分は、過度な装飾のないシンプルなものを好むらしい。だから木工が好きなのだが、今回も色々と面白いものがあった。木目を活かした作品というのは総じて面白い。あくまでも自然の造形を活かしつつ、創作として仕上げてゆくところに造り手の工夫が見られる。今回特に目を惹いたのは、柾目に板目を象嵌した作品(福嶋則夫「神大杉柾目造板目象嵌箱」)。一、二ミリ程の間隔で柾目と板目が互い違いになっていて、それぞれの板の年輪は間を開けて繋がっている。着想が突き抜けていて面白い。木の板の概念を破った、芸術的な作品と言える。


 他にも、硯は総じて面白い。ものとしてはごく単純な造形なので、造り手の美的感覚が如実に現れるところがある。素朴な石の風合いもその単純な造形美に控え目に色を添えていて、非常にストイックな美、ある種原型的な美、という感じがする。

 例えば木目を塗り込めた漆器などになると、螺鈿の象嵌や蒔絵など見た目は華美なものが多いものの、そこまで心動かされるところはない。抽象的な模様を描いたものならまだしも、蝶とか花とかを描いたものに関しては、「綺麗だな」という以上の感想があまり浮かばない。意味としての美が、存在としての美を阻害しているのだろうか。
 
 そうかもしれない。

 通常そこに有り体な美を見出さないような対象を描いた作品には、確かにある種の良さを覚えたから。なかでも感心したのは、どじょうを描いた漆器の箱(寺西松太「蒔絵箱「遊魚」」)。泥水のようなところで群れ泳ぐどじょうの様子が上手く描かれているのだが、泥水の表現に薄汚れた印象がない。つまり泥水から薄汚れた印象が捨象され、美的に表現されている。題材そのものを見事に昇華している感があり、これなどは現実を異化する芸術的な働きが強いように思われる。
 


 美はそもそも実存に基づく? 「夕日が美しいのは、それを美しいと思うパラダイムを生きているからだ」という意味の永井均の言葉を思い出す。逆に、意味がないと美もない? うーん。犬や猫や野生動物が、草花や風景に感心するようなところは、あまり想像できないな。しかし彼らは、少なくとも関心はある。彼らは美を見出さないかもしれないが、驚く。
 美の根源には驚き(タウマゼイン)があるのでは。だから美とは、そうした訳の分からない驚きを、差し当たって分かり良いものに収めるために生み出された、一種のレッテル(文化装置)なのではないか。美への感動というのは、存在そのものへの驚きが、文化的に変容したものだ、とは言えないか。そうすると、美に感心する以前に、なによりもまず「驚け!」ということになる。そうすると、芸術の本質はあくまでも美という文化装置を道具として、驚き(タウマゼイン)を喚起することにある、とも言えるのではないか。



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