【美術館レポート】熊谷守一美術館
天真爛漫
天衣無縫
という言葉が似合う画家、のように思われる。
その風貌から仙人と称されることも多い熊谷守一だが、風貌だけでなく境地もまた仙人と呼ぶにふさわしいように思われる。国からの褒章を突っぱね、子どもが出来て金が要りようの時にスランプに陥っても殊更無理をせず、絵を描くことにさえ執着しない。
この世に生きていながら、この世に生きている感じがしない人物、とでも言ったらいいだろうか。
熊谷守一美術館
豊島区の閑静な住宅街にポツンと、コンクリート打ちっぱなしの建物が佇んでいる。
近くには地元民しか使わないような銭湯もある。
まさに「穴場」といったところ。
もともと熊谷守一の終の棲家があった当地に建てられたのが、熊谷守一美術館とのこと。初代館長は守一の娘、榧さんが務めていたらしい。
2022年逝去とのことだが、併設のカフェでは今も榧さん作陶の焼き物でコーヒーやパウンドケーキ等を頂くことができる。
それほど広くない建物のなか、展示室は三階層に分かれている。一階が油絵、二階が日本画や書、三階がイベントスペース。スペースが広くないので、それぞれの階に作品は――20前後だろうか。
作品について
冒頭引用した「へたも絵のうち」という熊谷の自伝を読んで知っており、そこに作品もいくつか掲載されているので知ってはいたが、やはり実際に観ると違う。
特に熊谷は、油絵に関しては画業全体を通じて絵具を厚塗りする傾向があるので、筆跡が残りやすい。
例えば画業初期の「ユリ」を描いた作品などは、絵具がこんもりと盛り上がるくらいに塗られており、全体として荒々しい印象を受ける。ぱっと見た混沌の印象から、じっと眺めていると徐々にユリが立ち現れ、ユリを認識すると逆にもとの混沌に戻れなくなっていく、という認識の変遷が面白い作品となっている。
いわゆる熊谷作品として思い描かれるベタ塗りの簡素な絵も、表面を観察すると筆跡が確認できるので、これは実物を観る意義だと言える。画題も簡素そのもので、家で飼っていた猫だとか、庭の蟻だとか、クルミの腐木だとか……といった熊谷の生活圏の事物がほとんど。暖色の背景に事物が、これもまた暖色の輪郭線で明確に区切られた形で表されている。
花弁は一つになり、猫は塊になり、犬はゆるカワになり、夏は五筆くらいでさっと描かれる。
ものの細部は捨象され、描かれる対象の、対象たる核心だけが抽象的に表現されている。
絵を学んでいた当初は写実的な絵も描いていた熊谷が、様々な人生の変遷を経て最終的に至りついたのがこの極めて簡素な(ものによっては幼稚園児の作と見まがうような)作風であるというところがとても良い。
筆跡の話
後期のベタ塗り風の絵の筆跡をよく見ると、全てではないが概ね水平か垂直に揃えられていることがわかる。
これが意識的なものであることを最も強く印象付けられたのが、「クルミの腐木」の作品だった。
これは熊谷の家(つまりこの美術館の立つ当地)に生えていて家族のお気に入りだったクルミの気が枯れてしまい、切り倒して敷地に横たえていたものに白いカビがついたものを熊谷が描いたものらしい。
横たえられた木の幹は一直線ではなく、くの字に曲がっていたりする。何も考えずそこに色を塗ろうとしたら、木の曲がりに沿って筆を運ぶのが塗りやすいだろうが、そこには水平に筆を運んだ跡が見られる。
例えば猫を描いた作品でも、曲がりくねった猫の身体に沿う形で色を塗るとか、ましてや毛並みを表現するなどということはまったくなく、筆跡が背景と同様、水平に走っている。
これは「敢えて」のことであり、そこに熊谷の何らかの思想を見て取ることができるように思われた。
対象は明確な輪郭線で区切られた形で、その背景から截然と区別されている。
しかし筆跡に注意すると、対象と背景は一つの流れのなかにある。
日本画のほうはどうだろう
と、二階に上がってみて――微笑を禁じ得なかった。
植物を前面に、背景に山並みが描かれた作品。
赤毛の犬を描いた作品。
立ちのぼる入道雲と山の稜線を描いた作品。
双葉と蟻を描いた作品。
……など、観るほどに面白い。
どれもユルいというか、いい感じの「脱力感」がある。
ベタ塗りの油絵とは違って、こちらはかなり余白を取っている。
個人的に今回一番印象深かった絵が上記した「立ちのぼる入道雲と山の稜線が描かれた作品」で、「夏」と題されている。
雲は単なる墨の線の揺らぎとして。山は稜線の輪郭のみが描かれ、わずかな範囲が青色(緑ではない)で塗られただけ。「夏」というタイトルから考え合わせて最低限それが何を描いているのかわかる、といった抽象性の高い絵となっている。
「夏」という観念の孕んだ様々な要素を捨象した結果として、より純化した形で提示しているといった趣で、目を釘づけるような魅力がある。余白が多い所為もあるのかもしれない。
素人なりに考えると、物事をよりよく見、かつ描出を研鑽すると、ものそのものを見たまんま写実的に描き出す方向へと進みそうなものである。しかし熊谷の研鑽は、物事をよりよく見た結果として、ものの持つ本質を純化した形で取り出す方向へ進んだ、と言えるのかもしれない。
補遺
今回見た限りでは、蟻、蝶、猫、腐木、卵、といったように何か一つの「個物」について描いたものが多かった。風景はまだいいとして、例えば熊谷が「歴史の一場面」を描くというのはとても考え難いように思われる。
それは何故か――現に目の前にない対象を描こうとは思わないだろうから。そして、歴史上のことではないにせよ、「場面」というか、何らかの事象を描こうというのは思わない気がする。
それは何故か――熊谷の性向として、「ものそのもの」にリアリティを求めたから、と言いたくなる。事物相互の繋がりとか、そういうものではなく、ただ単にそこにあるものの凝視による本質の剔抉、に熊谷の本質があるように思われる。
そう、剔抉、抽象、というのも熊谷の特徴、のように思われる。
事物の全体を見たままに描き出そうとはしない。
自宅の縁側を描いた作品などは特に象徴的に思われる。ぱっと見ても、それが自宅の縁側を描いた作品だとはわからない。キャプションにわざわざ解説と図版が載せられていてようやく、物干し竿につるされた衣服だとか、縁側に置かれた足袋や服だとかがわかる、といった様相を呈している。
そこで何が行われているのか。
なぜ見たままを描かないのか。
それが熊谷自身の「見たまま」だった、というのが一つの説としてありうる。
他方で。
物事をよりよく描こうとした場合、物事そのものを写実的に描写するのでは足らない、ということがありうる。
なぜかというと。
物事の認識というのはそれを認識する主体においてこそなされるものだから、客観的に正しい形が自分にとって真実のある形であるとは限らない。
例えば目の前に檸檬の一果があるとする。
それを見るAさんの観念と、Bさんの観念は当然異なる。檸檬という個物にまつわるこれまでの記憶、思い出、その時の心理状態、そもそもの性向、等々。
われわれは同じものを観ているようで、同じようには観ていない。
だから己の個的な観方を表現しようと思ったとき、非一般的な言葉や表現を連ねる必要に迫られるのは当然のことと言える。
檸檬の一果にまつわる梶井のこの表現は、それこそ梶井の実存の際の際を示しているように感じられて胸に迫る。
―――――
熊谷の絵画は一つ一つに熊谷の境涯が現れている。熊谷という一個人から開かれた世界における「ありありとした現実」がそこには表出されている。
熊谷の描いた絵画を通して、熊谷の「ありありとした現実」が垣間見えたとき、鑑賞者はいわば熊谷守一という一人物の生そのものを生き直したと言えるだろう。
今回の鑑賞で熊谷守一の生を生き直し得たかというと、さすがに断言はできない。しかし、やはり、どうも自分は熊谷と似た何かがあるらしいことだけはひしひしと感じられた。
ともあれ、熊谷守一に惹かれる人間にとって、その作品を一望できる美術館が存在するということ自体が僥倖と言える。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?