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迷路に生まれた人は【自動記述20241224】

 午後11時17分

 迷路に生まれた人は自分が迷路に生まれたことを知らない。

 迷路に生まれたことを知らない人は迷路のなかを、だから迷っていることを知らない。

 人は迷路で右往左往迷っていることを、真っ直ぐ歩いているのだと錯覚しながら、特に出口を目指すでもなく辺りをうろうろしている。

 迷うというのはだから案外難しいことで、自分が迷っているのだということにまず以て気づく必要がある。

 迷いに気づくとは迷路にいる自らに気づくということであり、だから迷路を外から眺める視点がどうしたって必要になる。

 迷路を外から眺めるには、われわれのこの両側を埋める高い壁を登り切ってその頂上に立つ必要がある。

 実際的にであれ、観念的にであれ。

 実際的に登ることができないわれわれは観念的に壁を登り、観念的な俯瞰の風景を眺めることで、自らが膨大な迷路の片隅で迷っていることを発見する。

 そんなことに満足できる人は当然おらず、人はみな一度や二度は、われわれの両側を埋めてそそり立つ高い壁を登ろうと試みる。

 その試みが決して成功しないことを織り込み済みで、それでも登ろうと試みる。

 われわれの両側を埋めるこの高い壁を、みんなで頑張って乗り越えようという向きがないわけではなく、彼らは総じて誤っている。

 この壁というのはこの壁であり、その壁というのはその壁なのであって、われわれに共通の壁などというものは実はありえないのだから。

 われわれは各々の迷路に迷っており、われわれの両側を埋めるこの高い壁は、実のところわれわれの両側を埋めているのではなく、私の両側を埋めているのに過ぎないのだから。

 それではなぜわれわれはこの迷路を、われわれの迷路として錯誤するのか。
 それは迷路がもはや実際的に見渡したりするのが不可能なくらい膨大なため、ほとんど観念と化しているからだろうか。

 われわれは観念の迷路に寄り集まり、観念の迷い人として言葉を交わしている。

 観念の迷い人であるわれわれは、観念の迷路で、観念の生を暮らし営んでいる。

 そうしてわれわれは各々を囲む各々の壁の存在を忘れ、まるで壁などないかのように暮らし営んでいる。

 それでも時折、何もないところで、誰もが真っ直ぐ歩き抜けるところで、私の迷路の壁が、私だけに設えられた迷路の壁が、姿を現すことがある。

 それは観念でおぎない切れなかった、私の、この世界にもともと設えられた壁であり、それはつまり私なのだろう。

 恐らく迷路は私であり、そして私は迷路である。

 そう認識を改めない限り、観念の迷路に迷う観念の人々とのあいだでどこまでも齟齬が生じ続け、やがて私は四方を壁に囲まれることになりかねない。

 恐らくは。
 生きるためには。
 私は私の迷路を正確に把握する必要がある。

 そして私は、私なりの迷路を迷う必要がある。

 午後11時29分

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