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自己補強的選択と自己変様的選択

 そうだな。最近よくリサイクルショップに行っているが、そんなにものを買ってはいない。何を買うべきかというのがちょっと曖昧なところもある。差し当たってはパーカーを狙ってはいるものの、いまいちピンとくるようなものがない。

 そもそもパーカーが必要なのか、という疑問もある。

 もともとトレンチコートを買ったのでそれと合わせようかと思って買おうと思っていたのだが、トレンチとパーカーという組み合わせも考えてみたらちょっとステレオタイプ、なように思われてはきた。普通の綿のパーカーよりも、今日古着屋で見たような編み物っぽい生地のとか、他と違ったパーカーなどのほうが面白いかもしれない、とちょっと思う。インナーとしてパーカーを着るのであれば。

 昨日見たなかでは、アメリカ製のなんでもないような、あれは、なんていうんだろう、ブルゾンか。ブルゾンがちょっとよかった。見たところとくにこれといったオーラはなかったのだが、着てみたら意外と良い、みたいな。

 服を選ぶときは基本的に「凝」を発動させて物体がまとうオーラを見ているのだが(ファーストインプレッションとも言う)、「着てみたら意外と良い」という服はいくらでもある、のかもしれない。ファーストインプレッションで選んで、試着してみたらイマイチ、ということが多々あるのだから、その逆も多々あってしかるべきだろう。

 しかし、そういう例というのは、選ぶこと自体が難しい。……うん、これは課題かもしれない。そういうのを選べるというのは、これまでとは全く別の、真逆の視点を身に付けるということだろうから。

「服としての良さ」で選び「着てみたときの良さ」へ至る道筋がある一方で、
「着てみたときの良さ(推察)」で選び「着てみたときの良さ(実感)」へ至る道筋もある、
 というこれは話だ。

 ああ、そう言ってみれば、後者は「服としての良さ」をまったく無視することができる、ことになる? かもしれないな。服としての良さを差し置いて、着てみたときの良さのみを軸に服を選ぶ……そんなことできるだろうか? 

 それをするには、自分という人間、というか身体が、外在的に捉えられていないと不可能ではないか。……あるいはモデルや俳優など、自分の映った媒体を自分でよく見る(それも容姿について意識的に見る)機会のある人間であれば、そういう視点で服を選ぶことができるのかもしれないが。

 自分に似合う服、というのを選ぶとき、自分の身体に似合う服を選ぶのであると同時に、自分という人間のキャラクター性(というか自己認識)に合う服を選ぶ、というのの二つの見方がある。
 自分の身体に似合っても、自分のキャラ性に合わない服、というのはあるだろう。

 ――しかし、それは弁別可能だろうか? 自己認識を措いて、単純に身体に似合う服というのを、見ることができる? それは自己の身体を、自己ではなくむしろ他者として(というかもっと言うとマネキンとして)見ることと同義ではないか。そんなことが可能だろうか。

 それが可能になったら、これまで自分がまず選ばなかったような服をも選ぶことができるようになるだろうし、そのことによって自己認識自体が拡大・変様するだろう。

 それこそ「良き選択」ではないか? 
 いや、良き選択というより、すくなくとも 「面白き選択」とは言えるだろう。

 自己の文脈から逸れることなく、自己を補強するような選択というのも、まあ確かに必要なものではあるだろう。ただ、自己の文脈を逸れることで、自己を拡大変様させるような選択というのは、そこから一歩進んだ選択、とは言えそうではある。

「自己補強的選択/自己変様的選択」

 と、名づけてみよう。
 後者の選択は、前者の選択に比べてはるかに高度、と言えるだろう。とりわけ、それを自分でやろうとする場合には。むしろこれは、自分をよく知らない(が、ファッションセンスのある)人物に選んでもらうという仕方が最も適している、ように思われる。だからそれを自分で行う場合、まさにそういう人物に自分自身が成り切らないといけない、ということになる。

 言うまでもなく、この考えは服のみならず生におけるすべての選択に適用できる。

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 自己補強的選択ばかりを続けた結果として、人は自己認識として老いていくのではないか――という論理展開が可能だろう。自己を補強しすぎて、自己が凝り固まって、もはや選択に遊びがなくなってしまう。そうして、読む本が、聴く音楽が、着る服が、行く場所が、付き合う人が、固着化していく。
 そうなるともはや、自己認識から外れることに忌避感さえ生まれてくる……というように。

 物事の好みに世代間で格差が出ることについて、以前は不思議に思った。なぜ自分は若い人々のようにボカロ曲をそれほど聴かないのだろう、とか(世代的にちょうど切れ目だった、と言うことは簡単だが、そもそもその「世代」とはなんなのか)。
 若い頃にビートルズが全盛だった頃の人はビートルズを聴き続けたり、歌謡曲全盛だった人は歌謡曲を聴き続けたり。おおよそ順当に若い人が新しい者好きで、若くない人が昔のもの好き、というのはなぜだろうと。

 それは上記したように、およそ人々の通常取りうる選択というのが「自己補強的選択」に限られるから、ではないか。

 そうだな。今ふと思い出した。The band apartのベーシスト、原が言っていた。自分の趣味嗜好から最も遠いからという理由でアニメを見始めたら面白くてハマった、と。
 こういうのこそ稀有な「自己変様的選択」の一例だろう。

 若い頃というのは、そもそも自己そのものが定まっていないので、選択は必然的に自己変様を伴うものとなりがちだろう。しかし年を経るごとに、選択は自己を補強するものでしかなくなってゆき、やがてもはや補強という役割さえ失われ単なる反復と化していく。
 何度も通った道を繰り返し通り、ただただ轍を深めてゆく。そしてしまいには、轍に埋まってゆく。

 ……それは実質的な死だ、とさえ言えるのではないか? 恐らく、この文脈で実際に命を絶った創作者というのは過去大勢いることだろう。

 轍に深々とはまっていく自己を発見して、回りを見渡しても壁ばかり、上を見上げると空はあまりに狭く、そこから抜け出すのにはあまりに壁が高すぎる。
 ――そんな状態は恐ろしい。

 しかし、実のところ多くの人が、幾千幾万と歩き詰めて谷のように深くなった轍の底で、特に不自由だとも思わず、まるでゲームのなかの「村人A」のように、決められた道筋だけを淡々と行き来しているのではないか。

 確かに、そういう「村人A」に成りきるのも、生における一つの達成とは言えるのかもしれないが。
 他方で、自己をいかに棄て、自己をいかに新しく保つか、という方向性もまたありうるし、個人的にはそちらにこそ活路を感じる。

 自分は生きているだろうか。
 どうだろう。

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