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超えられてしまった一線を見つめて。


どこまで責任に感じて、どこまで償えばいいんだろう。

と、ずっと考え続けている。

2018年の夏。

40日かけて中国を旅した。
当時私は山東省の小さな町で日本語教師のボランティアをしながら中国語を勉強していた。

台儿庄という抗日のアイコンのような地のほど近くにいながらも、町の人たちは外国人の私に親切で、中国語だけじゃなくて、中華料理のこと、漢字のこと、映画のこと、アイドルのこと、恋愛のこと、本当にいろんなことを教えてくれた。

そんな彼らに、

「せっかく中国に来たのだから夏休みは中国の美しい自然を見て回ったらいいんじゃないか?」

と言われて、気のいいおっさんがどこからか中国の地図を持ってきてくれて、市場の飲食店の机の上にその地図を広げてみんなでああだこうだと好き勝手に意見を言いながら旅の計画を立てた。

「ここがいい」という人がいれば
「ここは、女の子の一人旅には危なすぎる」という人がいて。

「嫁の実家がここだけどここはいい人ばかりだ」

という人がいれば、
「ここの人間は最悪な奴ばっかりだぜ」という人がいて。

まっさらな地図に大量の書き込みがされた後に完成した旅程は、

山東から上海、アモイ、建瓯、桂林、陽朔、長沙、張家界、昆明、大理、麗江、シャングリラ、それから北京

というものだった。

決して効率がいいとは言えない旅程だったかもしれないけど、みんなの想いが詰め込まれた旅程を地図に書き込んで旅立ちの日までワクワクした気持ちで眠ったことも覚えている。

そして、その旅は私の人生で忘れがたい、宝物のような思い出だ。


いろんな人に出会い、いろんな経験をして、いろんなものをこの目で見て味わって聞いて、感じた。

その旅の中で自分の二つの目の中に閉じ込めた極彩色の風景たちは今も私の頭の中にしっかりと残っている。

その旅の最後は、北京だった。
どうしても訪れたい居場所があった。

盧溝橋

私が大好きで恋して夢中になった中国と、私の母国の日本の間にある、重たくて暗くてとてつもなく難しい歴史問題を始めてしまったその地をどうしても自分の体で訪れてみたかった。

山東の人たちと話す中で、80年前の戦争の影を感じることがあって、
中国に来て、初めて加害者としての自国の歴史を見つめた。

ずっと続いていくはずだった幸せな毎日を、海の向こうからやってきた人たちに踏みにじられた過去は民族として忘れることはできないだろう。

でも、その山東の町の多くの人は、
「過去は過去、未来は未来だからね」と言ってくれる人ばかりだった。
そして、時に熱くなって私に「お前たち日本人は中国人をたくさん殺したんだ」という議論を持ち掛ける人がいても
「歴史の話はやめよう」と止めてくれる人がいた。

そう、日本人相手に、日中戦争の時のことを持ち出して意見を聞いたり、責任を問う事は「野暮なことだ」といううっすらとした認識が、
あの頃台儿庄からほど近い、元炭鉱町の寂れたあの街にすらその空気感はあったのだ。

盧溝橋に行く事は、旅の初めから決めていた。

だけど、旅の間中国人の優しさや温もりに触れるたびに行きたくなくなってきてしまっていた。

ドミドリーで同室になった中国人の同じ歳の女の子と夜遅くまで缶ビール片手に話し込んだこと。

偶然出会った中国人の家族にタクシーを相乗りさせてもらって僻地の観光地へ辿り着いたこと。

旅先で中国人の友人の家に滞在させてもらったこと。

そんな優しさの根元に、この優しさを投げ出してくれた人たちと私の国との間に悲惨な歴史があることを忘れてなかったことにしてしまいたい。



大好きな北京で頤和園とか天安門広場とか万里の長城とか故宮とかそんな大好きな場所だけ抱きしめていたい。



同じ北京にある、中国最大の反日施設、中国人民抗日記念館、そんなもの見たくなくなっていた。


でも。だからこそ、どうあがいても行かなければならないと思って、緊張した気持ちで地下鉄を乗り継いでバスに乗った。

この機会を逃したら多分一生行かないと思ったから。

最寄りの駅に着いた時から自分が日本人だとバレないように口をつぐみ足早に歩いてバスに乗り込んだ。

中国人民抗日紀念館、そして盧溝橋につながる大きな門。

気のせいか空気が静かでお土産物屋さんには旧日本軍の人形や無数の中国国旗がはためいている。

写真を撮るのも忘れて歩いて、歩いていくとどっしりとした博物館にぶつかった。

中国人民抗日戦争記念館

入っていくと、

犠牲になった人を悼むモニュメントや、

中国の歴代の指導者たちの日中戦争に対する思いが記されていた。


そこから先は、写真を撮ることができなかった。


とにかく怖かった。

あまりにも残酷な写真や、記述が多すぎて、耐えられなくなった中国人は大きな声で日本人を罵っていたし。


泣き出す人もいた。


本当に悲惨なことが多かった。



お母さんを殺されて、それを知らずにお母さんに寄り添う赤ちゃん。


暴行された後の女の子の虚ろな顔。


ぐちゃぐちゃにされた遺体。


書けばきりがなくて。


あとで調べてみると、この資料館も含めて中国の抗日博物館の展示には、真偽が曖昧なものも多くて、その全てが全て真実ではないということを知った。

だから、私はこの資料館の全ては信じはしない。



だけど、東京大空襲や原爆投下を見る私たちの痛みや恐怖は海の向こうからやってきた存在が自分の国を焼いて沢山の人を殺したというもので。



でも場所を変えたら、あの頃の中国人にとっては海の向こうからやってきて自分の国をめちゃくちゃにして大切なものを沢山奪った存在は日本人だったのだ。


ここ中国ではその歴史の上で日本人はまぎれもない加害者だった。



そしてあの戦争は中国では、中国が多大な犠牲を払い満身創痍になりながらも決して諦めず日本を筆頭としたファシズムを打倒した誇り高き勝利の歴史として存在している。


そこに存在する圧倒的加害者のファシズム国家こそが、中国人から見た当時の日本なのだ。

そして現在も愛国教育の名の下に脈々と受け継がれる根底にある常識なのだと思った。

資料館をでて盧溝橋に向かった。

大きな大きな立派な橋を、
ゆっくりゆっくり歩いた。


本当にたくさんの優しい中国人に出会ってきた。

たくさんの顔が頭に浮かんだ。


そして、その全ての人をとてつもなく遠くに感じた。



幸せな夢を見て眠っていたところに冷水を被せられて叩き起こされたみたいな気持ちで。



私と彼らの間にいきなり大きな大きな大きな川が現れて、渡ることができないような感覚。



それは、この日から6年が経った今になっても消えない。

むしろ濃くなるばかりだ。


どうしたらいいんだろう。



と、これからも考え続けなきゃならない。


その時の私は、それでも私と中国の間にあるこの大きく悲しく、決して超えられない川ををなんとか漕ぎ出し、波に飲まれたり、沈没したりを何回だって繰り返しながらそれでも、限りなく近づきたいと思った。


私は許されたいわけではない。

謝りたいわけでもない。

自国の歴史を恥じて自己嫌悪に陥ってるわけでもなかった。

それは6年経った今でも変わっていないけど。

私と違って中国は6年の間にずいぶん変わってしまった。

日本人を狙って今年にはいって2回目の襲撃事件が起きてしまった。

1回目は蘇州。

今回は深圳。

2回とも人が死んだ。

それも1回目から3ヶ月も経たないうちに。

どうして。

蘇州で中国人が日本人を身を挺して庇った時に中国は立ち止まれなかったのか。

国が不満の捌け口として言論の自由空間を日本批判によってのみ解放した結果、一人の同胞が犠牲になった時に、なぜ立ち止まらなかったのか。

きっと話は通じないだろうけれど、今となっては靖国神社に尿をかけ、深圳で子供を殺し、蘇州でバスを襲った一人一人に聞きたい。

目の前の日本人は、あなたの国との戦争が起きた時には、生まれていたかったはず。

どういうロジックで、思考の果てに殺すほどの憎しみを目の前にいる中国人と姿形が似ている人間に向けられるのか。

どうして、会ったこともない話したこともない人や国をそうも無邪気に純粋に敵国として恨むことができるのか。

一人一人いい人も悪い人もいる。

それは日本人でも中国人でも同じこと。

でも、それじゃもはや無理なんだ。

名もなき市井の人が命を投げ捨てて、日本人一人助けても、
政府の態度が変わらないなら結局日本人は殺される。

私は今日という日ほど、中国政府を恨んだことはなかった。

「どこの国でも起きる事件だ」

っていうけれど、この事件の本質は自分たちが立ち行かなくなった国で民衆の不満を押さえつけるために爆発的な負のエネルギーを受け止める気概がなかったから、代わりに日本人に向けて放出することを黙認した結果だろう。

そして、誰よりもそれをわかってるから日本をはじめとする諸外国へのヘイトを止められない。

中国は14億人いる国だ。

中国政府は14億人の人々に飯を食わせる責任がある。

14億人が飯を食うために、外国資本がやってきて国に消費と資本とイノベーションを起こす事は不可欠ではないのか。

ボーダレスになる世の中で、
金と技術だけは欲しいけど、外国人はお断り、尊重する気はないし、殺されてもそれはどこの国でも起こる事。

で居直ることが許されるわけがない。

日本人が日本人であるだけで、歴史問題の数千万人の犠牲者を殺した罪を問われ続け、命の危機に晒されることは、本当に必要な事なのだろうか。

それは果たして、あるべき姿なのだろうか。

ヘイトはクオリティと純度を増すばかり。

この国に人生を賭けると決めて、走り出した私は止まる事はできない。

あの盧溝橋に行った日の日記にこんな言葉を書いていた。

「私はこれからも、私も同じように傷を負って、痛みを知り、両方の川岸からお互い手を伸ばし合うように共に努力をし続ける日本人でありたいのだ。」

そんなふうに、伸ばし続けた手を、取られなかったばかりか、傷つけられて踏み躙られて血まみれになってる日本人がきっとたくさんいる。

このまま中国はどこに行くんだろう。

伸ばし続けた痺れた手を、今更引っ込めることもできないで、呆然と立ち尽くしてる。

ただ、今は。
死んでしまった10歳の男の子とその家族の安らぎを祈ることしかできない。

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