「あけましておめでとう」ぐらい言わせてくれよ。
コロナはクソみたいな時代だった。
アルコールダメ
ライブダメ
海外旅行ダメ
飲み会ダメ
なんかあったらすぐ緊急事態宣言。
大量繁殖するマンボウ(まん延防止措置?)
もー何もかもがうんざりだったけど、
一番嫌だったのは海外に行けないこと、というか中国に行けないことだった。
コロナ前は最低でも3ヶ月に一回は中国に行ってどこそこ遊びに行っていた私にとって中国渡航は一つの大切な習慣のようなものになっていたような気がする。
中国の空港に降りて、ちょっと日本より埃くさいような空気を胸いっぱいに吸い込み、飛び交う中国語の渦の中で自分もまるで14億人の中国人の1人みたいなすました顔をして歩くと、なんだか自分が別人になったような気がしてなんとなく心地よくて。
私はその一連の流れを通して心の換気のようなものをしていたのかもしれない。
なので、中国がゼロコロナ政策を放棄して観光ビザという形で私のような一般人にも再び扉を開いてくれた時は素直にとっても嬉しかった。
てなわけで私は、2023年9月にドキドキしながらビザ申請について調べて、10月に申請して、11月にビザを受け取り、12月の年末休みを利用して10日間の中国旅行に出かけた。
12月29日の夕方に上海の浦東空港に降り立った私は、冬の上海の乾燥した空気冷たいツンとした空気を胸いっぱいに吸い込んで、灰色の空を眺めて、スーツケースを受け取り地下鉄に乗って意気揚々と上海の中心地へと繰り出した。
うるさいくらいに氾濫する中国語の波と、
4年間来られなかった大好きな場所の香りや、空気や、記憶から消えていた細かいところを一つ一つ拾い集めるように五感に閉じ込めるのに忙しくて、気が付けばポロポロ泣いていた。
ああ、やっと来られたんだ。
それくらいに私は中国を恋しく思っていたのだと自分で気がついて少しびっくりした。
その旅行の大きな目的は中国人の友人たちや恩師に会うことだったのだが、もう一つ1人で上海に来たのは知らない中国人たちと新年を喜んでみたいというのがあった。
よく渋谷とか道頓堀で新年のカウントダウンをやっているように、中国でもやってるんじゃないかなあって思ってとりあえず事前にろくなリサーチもせずになんとなくゆるいノリでやってきたのだ。
迎えた12月31日の夜は、まずは豫園という上海の有名な観光地に年末のライトアップを見に行った。
予想通り歩けないくらいの人だかりの中をダラダラと歩いて、中華式のイルミネーションを冷やかして、その人混みさえも久しぶりすぎる中国では懐かしく感じてテンションは上がりきっていた。
そしてその後は、上海の中心地の繁華街の外滩(ワイタン)にも出かけた。
日本人にも馴染みがある、上海のド派手なこの夜景が見られるところが外灘である。
さて、ここから私の話を理解するには外灘の構造を知らないといけない。
と言っても別に難しいことではなく、
「人民広場」といういかにもな共産主義国家の駅名のついた駅から出る。
すると駅から出たあなたの前にはこんな景色が広がる。
このスケールのでかい歩行者天国を嫌になる程ひたすらひたすらまっすぐまっすぐ歩いて行って、突き当たり。
大阪弁で言うところの「どんつき」にあるのが、あの夜景である。
私は海を挟んで向かい側にあるあの夜景に、
「新年快乐!(あけましておめでとう)」
と叫んでみたかったのである。
そりゃもう、中国映画のヒロインみたいにね。
てなわけで、人民広場駅から出てきたんだけど、もうそこは人の海。
うるさい中国語を上回る、ホイッスルの音と交通整理の公安の人たちの「止まるな歩き続けろ!」というもはや怒号の声がその場を支配していた。
が、「なんだこれ。すっごく中国じゃん!」とこの時点では私もテンションが上がっていたのだが、その次に視界に入ってきたのは巨大な歩行者天国の秩序を文字通り「人間の壁」で守る大量の人民解放軍の皆様のお姿であった。
他全く無言で表情もなくただ立っている軍人さんたちはそれだけでなんだか威圧感があって。
軍人さんの近くでガンガン叫びながらびーびー笛を吹いている交通整理のおっさんで役割分担はきちんとされていた。
騒然とした空気の中を抜けていくと今度は公安の車で埋め尽くされている道路に突き当たる。
この道路を渡れば夜景なのに、横断歩道の向こう側に見えるのは公安の皆さんの人間の壁。
この上海の夜に一つもトラブルを起こさせない。
外灘の夜の秩序を掌握するんだ、という上海市政府の強く固い固い意志を感じた。
道路を渡ることは許されなくて、結局ダラダラとそのまま迂回して回れ右をするようなコースを強要されて残念な気持ちのままに時計を見ると、11時59分。
あと一分で年が開けるところだった。
みんなが時計を見つめて、2023年の最後の59秒間を数え終わった瞬間に、
どこからともなく
「あけましておめでとう!」という中国語が響き渡った。
それに連なって幾つかの声が上がった。
一瞬だけ。
ほんの10秒間だけ空気が明るくなって幸せな空気が流れて、さあこれにつづけという空気のなかで人々が「あけましておめでとう」って叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間に、
「さけぶな!静かにしろ!」
と大音量の拡声器に乗せられた警察の怒鳴り声が人々の吸い込んだ空気を「あけましておめでとう」の言葉にするのを永遠に遮った。
その瞬間にその場を支配した、
「あー、やっぱりだめかあ」
という、少しがっかりしたような空気感が今も記憶の中にこびりついている。
それはまるで、小学生の時に公園でのボール遊びを禁止されたような気持ち。
地域のご老人たちから出た苦情のせいで、
封鎖された登下校帰りのおしゃべりをしていたいつもの溜まり場に張り詰められたバリゲートを見たような気持ち。
理不尽の中に小さな楽しみを握りつぶされた、でも激怒するほどでもないこと。
それをあっさりとその場にいた中国人たちが受け入れていき、黙々とまた公安に言われるままに決められたルートを歩き始めたのを目の当たりにして、私はなんだかひとりぼっちになった気分だった。
納得なんてできるかよ。
あの道路を渡った海の見える場所で、海と夜景に向かって新年を喜ぶ声も上げられない。
ただその場に居合わせた人と「あけましておめでとう」も叫べないなんてバカみたいだ。
一体なんの権利があって拡声器を持った警察官は人々に「あけましておめでとう」と叫ぶ権利を奪っているのか。
事故が危ないから、雑踏の中での将棋倒しが危ないから、ちゃんとルートを守らないといけないことも分かるし、人の数もスケールも違う中国には日本と違うやり方もあるだろうということも理解できる。
でも、声に出して「あけましておめでとう」というのがどうしてダメなのか、私には心の底からは納得できなかった。
もちろん、中国はこの約1年前に白紙革命という、ゼロコロナ政策に反対する学生や市民たちが政府に向けて大声でスローガンを叫び、白紙を掲げて、天安門以来最大規模の政府に反抗する運動が起こっていて、それが終わったとしても初めて人民が共産党に対してたった一瞬でもNOを突きつけたことは、中国の現政権や権力側にとっては重大な記憶となり、どんな小さなリスクの芽でも潰しておきたい。
そんな神経質な姿勢になってるんじゃないか、
みたいなことを新聞や記事で読んだことはあって、頭で理解したつもりにはなってたけど、何にも理解してなかった。
だって新年なのに。
この世界のすべての人が一年365日の時間を精一杯毎年生きて、一年を終わらせてまた新しい一年を初めて。
そうやって生きている。
中国にとっては旧正月が大事で、西暦の正月は意味が薄いとかそんなところをさっ引いたとしても、2023年から2024年へ新しい一年へ移行する瞬間を思い思いに言葉を叫んで喜ぶ権利は中国人にだってあるはずだ。
それなのに、それが目の前で踏み躙られた。
私の周囲にいた見知らぬ中国人たちにとって、そういうことが幾度となく繰り返されてきたのだと。
あっさりと警察の言葉に従い叫ぶのをやめてしまって静かに歩き出した中国人たちを見て、痛いほどにわかった。
それが私の、
4年間で痛いほどに変わってしまった中国との対面で、悲しい再会だった。
それを、旅の道中であった中国人の友人たちに話すとみんな、憤る私を小さな子供を宥めるように
「没办法(しかたがないよ)」
といって、少し寂しげに微笑んだ。
それでも、たった十秒。
何人かの人たちの「あけましておめでとう」が響き渡り、みんなで息を飲み込んだ瞬間の高揚感を味わえたことは幸運だったと思いたい。
みんなが胸に少しずつ飲み込んでるものが、いつか花火のような極彩色で夜空を打ち破っていくように新しい時代を作る瞬間を、どうか中国が大好きな外国人として本当に世界の端っこから見れる瞬間が来ればいいのになあ。
みんなが、路上で「あけましておめでとう」って叫んで、カウントダウンして、喜びを爆発させる。
そんな当たり前の景色が、上海にもあったらよかったなあ。
そんなことを考えながら、私は次の街を目指す国内便の飛行機に乗り込んだ。
それが、四年ぶりの中国との再会。
そしてここから私と中国はもう一度始まり、今私と中国の物語は現在進行中で続いている。
悲しい時も嬉しい時もあるけど、
中国を通してしか知らなかった感情や、感じることができなかった思いは、中国から私に贈られる何よりも大切な財産で。
そのもらった財産をずっと抱きしめて、今日も大阪の片隅で中国宛の伝票や電子メールを送りつづけている。
あと3週間後はまた上海の空の下。
次はどんな気持ちになるんだろう。
ちょっと心配でも、まだやっぱりワクワクしてる自分に少しだけホッとしてる。