中国人が向き合う生命と交通カードの話
中国人はとんでもなく親切な人が多い。
日本人の目線からすると、「ちょーめんどくさー」レベルのお願いを、
「お安い御用さ!」
と軽いノリであっさりと引き受けてくれることもよくあること。
その親切さにまだ中国人と関わり始めたばかりの頃は、圧倒されて感動して、すっかり中国が好きになっちゃった。
と言うことを今は懐かしく思いだす。
が、しかし。
もーちょっと中国人と深く関わるようになると、
「ちょっとおねがーい」
のノリでとんでもなくめんどくさいことを頼まれるようになる。
中国に行って知り合いの家に行った時に、
その知り合いのご近所さんの子供が日本に留学してるから、息子に物を届けてほしいと言われて、10キロくらいの荷物を渡された時は流石にブチギレそうになったが、、
まあそれでも「まあいっか」と受けてしまう私もちょっとは中国に染まってるのかもしれない。
人が人に物を頼むハードルが異常に低い中国と、
人が人に物を頼むハードルが異常に高い日本なので、
中国人のあれこれお気軽な重いお願いに辟易する日本人の話はよく聞く。
とくに、中国に住んでる日本人については帰国のたびに「あれを買ってこいこれを買ってこい」といわれてうんざりだ、なんて話は本当にまじでそこらじゅうに転がっている。
さて、中国人や中国と関わってきた私もこれまでそれなりにたくさんのめんどくさいお願いをされてそれなりにたくさん断り、それなりにたくさんの受付けてきたわけだが。
私について特筆することがあるとすれば、
私にくる中国人のめんどくさい依頼は
医療
と言うものになるところである。
と言うのも私は親族に多数の医師がいる家系で、
挨拶がわりに両親や親戚仕事を聞いてくる中国で出会った中国人の友人や恩師たちは私の家族に医師がいると言うことを知っていた。
なので、何か体が悪くなると
「お前の父親に聞いてくれよー」と送ってくる。
もちろん、体に関わることなので大抵はお断りするのだが、本当に親しい人やお世話になった人が遠慮がちに相談してくる時はちょこちょこ父や叔母に取り次いで、簡単なアドバイスをしたりしていた。
さて、私には絶対的な恩師で大切に思っている中国人がいる。
バイト先の王将で出会ったセンセイである。
広州の大学の先生であるセンセイは、2019年1年間を京都の某大学に研究員として派遣されてきており、なぜか私のバイト先の王将の店長のアパートに下宿をしていたのである。
センセイは、毎晩王将に店長が作るニラ玉を食べにきていて、いつも店長と私とセンセイはくだらないことをおしゃべりしていた。
先生が中国に帰った後、店長と私は中国に会いに行きまでするほどに固い絆で結ばれているのだ。
(ここからの話はこの記事を読んでからの方が、より深く読めると思うので興味がある方がいればぜひこちらを先に読んでほしいです)
先生は広州に帰った後もいつだって私を助けてくれた。
社会人一年目でパワハラで適応障害に陥り、ボロボロになった私のために、広州の大学院の資料を集めてきて、
「会社辞めてもう広州にきなさい。好きな勉強して、2年くらい休憩して、それが終わったら仕事は一緒に探してあげますから」
とemsで入試関連の書類を送ってきたり、
中国での就職先を探してくれたりもした。
「とにかくね、辛くても、苦しくても死んじゃダメですよ。あなたは私にとって本当に大事な1人の人間なんですから。
死にそうになって全部ダメになってもなんとか広州まで来なさい。そしたら私がなんとかしますからね」
というセンセイの言葉がどれだけ私を救ってくれたか。
きっとセンセイは知らない。
センセイが広州という心の逃げ場を作ってくれたから、私は地獄のパワハラを耐え抜くことができた。
この先生が、2023年の秋の夜。
私にメッセージを送ってきた。
「蒼子さん、こんなことを聞いて申し訳ないのですがあなたのご家族の中に消化器専門のドクターはいますか?」
「はいー。叔母がそうですよ。センセイどうしたの?」
「ちょっとお願いがあるのですが、今から送るファイルのCTをおばさんに見てもらうことは可能でしょうか?」
「もちろんです。」
センセイからのお願いならどんなことでも断らないと決めている。
私が死ぬほどお世話になった人からのお願いだ、というと叔母は
「そんな大袈裟なこと言わなくても、蒼子ちゃんのお願いならおばさん聞くわよ」
と言って快く請け負ってくれたので、そのまんまセンセイが送ってきたCTのファイルを転送した。
「これは、、蒼子ちゃんちょっと厳しいわ」
叔母はそう言った。
「いったいこれ誰のなん?」
そういえばそれを聞いていなかった。
叔母に言わせればこれはタチの悪いスキルス胃癌で、だいぶん状態は悪かったらしい。
その旨をセンセイに伝えて、CTの中の胃の持ち主が誰なのかを聞いてみると、
ポンっとwechatに浮かび上がった文字は
「私の妻です」
というもので、私は目の前が真っ暗になってその瞬間の前後をよく覚えていない。
センセイの奥さんは、本当に本当に綺麗な人だった。
初めて会った時、体のラインがピッタリとしたパンツスーツを着て、真っ黒で艶のある長い黒髪をポニーテールのように後ろにまとめていた。
プラダのカバンをなんてことないように持って、
センセイよりも背が高かった。
「あたしの気が強いからなかなか結婚決まらなくて、ちょっと背が低いのだけが欠点だって言われて紹介されたのがこの人よ。
結婚してみて分かったけど、本当に背が低いのだけが欠点なの」
とイタズラっぽく笑った。
先生曰く、奥さんは政府の国際関係の仕事をもう20年くらい続けているらしい。
広東省でも随一の名門大学を卒業していて、アメリカへの留学経験も持っているスーパーキャリアウーマンだった。
学者気質というか、格好も垢抜けないし常にいつ買ったかよくわからないユニクロのビミョーに緩いサイズの服をローテーションで回しているセンセイとこのカッコ良すぎる奥様が2人で歩くと、一見チグハグなのによく見てると、お似合いにしか見えなくて、なんとも不思議な仕上がりになるのが面白かった。
すっと涼しげなシャープな目を、限界まで垂れるだけ垂れて細めるだけ細めてニコニコと先生と子供2人を宝物のように見つめている奥さんは、私が初めて出会った都会で働く中国人の女性だった。
私もいつかこんなふうになりたいと思っていた。
カッコよくなくても先生みたいにどこまでも心根がまっすぐな旦那さんと、
可愛い2人の子供を自分も稼いで輝きながら育てる人。
自分の足で人生を華麗に歩く中国人の女。
私は彼女の全てが素敵だと思っていた。
センセイ曰く、奥さんの収入の方が大きくて、気が強いもんだから、センセイの家では男女が逆転しているみたいだと、冗談みたいに、でも幸せそうに笑っていたのだ。
「いつ、これが分かったんですか?」
「3ヶ月前です。妻は一応政府の職員です。健康診断は毎年ちゃんと受けていました。それなのに…」
私の祖父も、56歳という若さでこの世を去ったが
その年も健康診断は受けていた。
「若い人は癌細胞も、若くて元気だけん進とも速かと。だけん、みつけられんかったとは健康診断のせいじゃなか」
と、若き日の父はそう言って母を慰めていたらしい。
「ねえ、蒼子さん。日本に、日本に行けば何か治療方法はあるんじゃないですか?
中国は医療も遅れてるし、それに医師の質も低いし、、」
先生がそう言ってくることはなんとなく予想できていた。
だけど叔母は、センセイが送ってきたCTをみて目をまんまるに丸めていた。
広東省の最高学府、中山大学の大学病院で撮られたというそのCTは、日本国内でもなかなかないような素晴らしい設備で撮影されたような精度のもので、
「ここまで細かいCTが撮れるなんて中国は恐ろしい国だ…」
とまで叔母に言わしめたもの。
処方されていた抗がん剤も、
「初手からこの薬で行くのか…」と叔母を嘆息させるほどの最先端の高額の薬だったのだ。
何を言わんとするかといえば、
日本と同等、それどころかそれを僅かに上回らんばかりの医療を受けれているのに、
センセイは自国の医療を信じられていない。
それは中国という国の病なのか、
それともセンセイが日本には何か魔法みたいな方法があるって信じていたい気持ちなのか、
それともその両方なのか。
私には判断できなかったし、判断する気力ももはやなかった。
このケースは5年の生存率が7%だ。
叔母が最後に言った残酷な呟きを私は胸にしまいこみ、センセイに伝えることはできなかった。
「蒼子さん、妻があなたに会いたいと言っています。今年の4月中国の観光ビザは解放されましたよね。蒼子さんは私たちに会いに来れますか?」
センセイの言葉に、頷いて、頷いて、頷きまくった。
会わねば、会わねば、会いに行かねば。
初めての観光ビザを申請した。
本当はノービザ解放まで待とうと思っていたけれど、待ってるような事態じゃない。
そして、怒涛の勢いで2024年1月1日広州へ飛んだ。
奇しくも、それは4年前店長と一緒にセンセイを尋ねた日と同じ日だった。
駅まで迎えにきたセンセイは、疲れ果てた顔をして力無く微笑んだ。
「ひさしぶり、蒼子さん」
今日だけは、どんなに辛いものを目にしてもとにかくお気楽外人でいよう。笑っていよう、笑顔でいよう。
そう、決意してセンセイの車に乗り込んだ。
広州の白雲区にあるセンセイの家に着くと、
2人の子供が出迎えてくれた。
四年前に会った時と比べて2人とも大きくなっていて驚いた。
上の子は小学六年生で、
下の子は今年小学校に入るらしい。
「ようこそ我が家へ!」
という2人は私のことをしっかり覚えていた。
2019年は本当に一ヶ月おきくらいに広州にやってきてはこの家やセンセイたちにお世話になっていたから。
そして、奥の部屋からゆっくりとグレーのスウェット姿の奥さんが優しい優しい顔をして出てきてくれた。
「まあまあ、すっかり綺麗なお姉さんになったわね。旦那から聞いてるわ、大きな会社で働いてるんでしょ。すっごく素敵になったわね」
青白い肌の色を見ないふりして、
「あらー、久しぶりです!そんなに褒められたら調子に乗りますよ!奥さん病気って聞いてましたけど心配して損しちゃった。すっかり元気そう」
と大きな声で言うと、奥さんは弱々しく微笑んだ。
「お母さんは病気だよ、それも大変なやつ」
息子はしれっとそう言った。
「うん、だからみんなで助けないとダメなのよ」
娘もそう言った。
センセイの方をさっと振り返ると、しょうがなさそうに微笑んだ。
「そりゃね、隠す人もいるだろうしそういう選択肢もありますよ。そういう選択も間違っていないとすら思います。でもね。
子供は馬鹿じゃないです、お父さんとお母さんが何か隠してるかくらい何も言わなくてもすぐバレてしまう。」
午後16時。
広州の夕暮れ。
鋭い夕焼けの光が部屋に差し込み、眩しくて目を細めた。
「もう夕方ですね、電気をつけましょう」
と言ってセンセイは電気をつけに行く。
「突然いなくなったって思われたくないの。」
ポツリと奥さんはそう言った。
夕陽に照らされて、スッと美しいセンセイの奥さんの横顔のシルエットが鮮やかに浮かび上がっていた。
「一生懸命やるってどういうことなのかを、見ていてほしいと思うの。
人間がどうにもならない困難に陥った時、苦しくても痛くても最善を尽くして、死ぬ気でやっていく姿を見ててほしい。困難に巡り合った時に逃げなかった姿を見ていてくれたら、たとえあの子たちの困難の場に居合わせることができなくても何かの糧になれる気がして。」
まっすぐ生きるとはこういうことなのか、と思った。
この人たちはどこまでもまっすぐに自分の人生に降りかかる全てを真正面から受け止めていた。
病気になってもならなくても、センセイも奧さんも何にも変わってなくて、変わらないまま生き抜こうと必死に前を向いてる姿が悲しくて、でもやっぱり私が憧れた姿のままで。
パッと部屋の明かりがついて明るくなり、
お手伝いに来ていたセンセイの妹さんが
「ご飯だよ!子供達早く来なさい!」
と叫んだ。
センセイの家では6歳の娘ちゃんがごはんをよそう係らしく、私にもご飯を装ってくれた。
「お母さん具合悪いからお手伝いするの」
と得意げにしていたので、
「えらいねー」
と言うと、
「褒めえてくれてありがとう、阿姨(おばさん)!」
と言われて衝撃を受けて固まる私にセンセイたちは大笑いした。
「こらこら、おねえさんはまだ若いんだから…」
笑いながら言うセンセイに
「ひどいです、4年前は姐姐(お姉さん)だったのに…」
奥さんも笑っていた。
「今は女性の人生は女性が選ぶもの。
年齢なんて数字なんだから好きに生きたらいいのよ」
そう言って愉快そうに笑った。
「おばさん。来週もきていいよ。」
「ばーか、おばさんはもう学生じゃなくて働いてるんだから毎週は来られないよ。来るとしても来月だよ、ね?」
奥さんは普段はずっと奥の寝室にいるらしい。
でも今日は私が来るから食卓に座って笑ってくれている。
子供達は多分、私が来た今日この日に昔みたいに母親が笑いながら食卓につき、リビングにいるのが嬉しくてたまらなくて。
だから、毎週私に来てほしいのだろう。
分かってるようでやっぱり分かってない。
それがあまりにも胸を突く。
「おばさん、じゃなくてお姉さんと呼びなさい!」
といって、笑った。
センセイも奥さんも笑った。
この次の日、私は広州から深センという街に移りそこから香港に入って日本に帰国する予定だった。
広州から深センまでは高速鉄道で1時間。
四年ぶりの中国で高速鉄道のチケットの買い方がわからない私は、センセイにチケットのオンライン決済を頼んだ。
センセイは「私に任せなさい!」と威勢よく言ったはいいものの、
検索サイトで
「高速鉄道 チケット ネット予約 やり方」
と検索し始めたので
「センセイ、大丈夫なんですか?」
と聞くと、ソファに座ってた奥さんが
「蒼子ちゃん、その人に頼んでも無理よ。
2人ともこっちに来なさい。やってあげるから」
としょうがなさそうに笑った。
奥さんはセンセイのスマホの画面を見ながらセンセイに新幹線のチケットの取り方を教えていく。
センセイはわからないところは止めて、奥さんの話を熱心に聞いていた。
それを見て奥さんは、声を上げて笑いながら
「もー、この人ね。この前珠海に出張があった時に、高速鉄道のチケットの取り方が分からなくて。今までは私がやってたけど、これからはそうもいかなくなるかもしれないから一生懸命教えたのに最後には喧嘩になっちゃって結局私がやったのよ。
それなのにもー!若くて可愛い子のためだったらこんなに真面目に勉強するのね、あなたは」
「つまんないこと言うなよ」
このまま、時間が止まればいいのになあと思った。
笑ってる奥さんと苦笑するセンセイと両親が笑ってるのが嬉しくてニコニコしてる子供2人。
誰か、この世界の憂鬱全部ぶっ飛ばしてくれ。
「あ、忘れるところだった。あなた、蒼子ちゃんに準備してたもの持ってきてよ」
センセイは奥さんにそう言われると奥の奥さんの寝室から綺麗な青い箱を持ってきた。
奥さんはその箱を私に向けて渡して、
「あけてあけて」
と言った。
パカリとひらくと、中には白い花の髪飾りが入っていた。
揚州というところの伝統工芸の絹を使った布工芸らしい。
奥さんはそれがすごく伝統あるものだと説明してくれた。
「妻はあなたのために結構時間をかけて選んだんですよ」
と口を挟むセンセイに奥さんは恥ずかしそうに笑った。
「これね、花嫁衣装に合うように選んだの。
真っ白なウエディングドレスにも似合うし、
もしも中国人と結婚することになったら、真っ赤な中国の伝統衣装にもすごくすごく似合うと思うのよ。」
泣いてはいけない、泣いては。
「すっごく綺麗ですね。これすごく好きです。
早く嫁に行けるように私ったら、頑張んないとですね!」
と言うと、
「ちがうわよ。周りの人の人生で心がざわつく瞬間がきっとあなたの人生にあるわ。
でもね、あなたはそのまま自分の行きたい道を行くのよ。
周りに流されてはいけない。
それでちょっと年齢重ねたって関係ない。
それで、あなたの行きたい道のその先に素敵な出会いがあったらその髪飾りつけて胸張ってお嫁に行くのよ」
あなたのこと、実の娘のように思ってるのよ。
そう言われて、向けられたまっすぐな好意によろめきそうになる。
「あとね、これ、私の交通カード。
広州の地下鉄はこれのほうが便利だからよかったら使ってね」
そう言って渡されたのは、ボロボロになった交通カード。
私がいちいち現金を払わないといけなくてめんどくさい、と雑談で先生と話していたのを聞いていたようだ。
「ふふ、長いこと使ってたのよこれを。
職場に行く時も、いつもいつも広州の地下鉄に乗る時はこれを使ってた。
もう私は地下鉄に乗ることはないから、あなたにあげる。
駅でチャージの仕方を聞いてね。すごく便利だから」
書いてあった模様が消えかけたその地下鉄のカードは、センセイの奥さんがこのカードを通して紡いできた広州での物語が詰まってる気がした。
「人生、きっと一生懸命やってると思うんだけど頑張るだけじゃダメなのよ。
いろんなところに行って楽しむことを後回しにしちゃいけない。
頑張るのも大事だけど、それ以上に人生を味わうことを後回しにしたらすごくもったいないから」
その地下鉄のカードを受け取って、
同じく店長の家族にも用意されていたお土産も預かって、私は最寄りの駅まで車で送ってもらった。
止めるセンセイを振り切って奥さんは2人の子供を連れてセンセイの車に乗り込んだ。
車の中では取り止めもない話をした。
子供たちは次にいつ来るのかとしつこく聞いてきて、
「ビザ手続きが難しいから前みたいにたくさんは来られないけど、できるだけたくさん来るから」
と言って宥めたりした。
あっという間に駅に着いて、センセイに荷物を下ろしてもらい、やっぱりまた握手をした。
「また来てくださいね」
「もちろんです。」
窓から顔を出した奥さんが、
「また会いましょう。もう地下鉄カードもあるんだから広州の移動も自由自在でしょ」
と微笑んだ。
「おばさんさよならー」
「だからお姉さんだってば!」
そう突っ込んで5人で笑って、センセイは車に乗り込み、4人はまた家へ帰って行った。
その車に向かって見えなくなるまでいつまでもいつまでも手を振って、見えなくなった後広州の空の下ボロボロ泣いた。
泣いて、泣いて泣いて泣きじゃくり、心配したお節介なタクシーの客引きのジジイと地べたで水を売ってるおばちゃんが寄って来て水を差し出して
「どうしたんだどうしたんだ大丈夫か?」
と言われてまた泣いた。
何もかもが優しくて、でも全部が悲しくて。
広州の夜空はどこまでも広くて。
もらった交通カードをかざして地下鉄に乗り込み、ぼんやりと放心状態で電車のアナウンスを聞いた。
帰国した後、元バイト先の王将の店長のところに行って、センセイから預けられていたお土産を渡して、センセイの近況について話すと
「そうかあ、センセイも大変やなあ。
まあ人生長いからいろんなことあるわ」
と、あっさり、でもどっしりと受け止めてそんなふうに言った。
「悲しいこととか辛いことのない人生なんてないやん。でも、悲しいばっかりの人生もないんよ、蒼子ちゃん」
冬の京都の道を歩きながら店長は全てを飲み込んだように静かにそう言って白い息を吐いた。
センセイの奥さんは、うまいこと今は抗がん剤が効いてくれていて、今は調子がいいらしい。
ここから一年、一年と時をどこまで重ねられるかは分からないけれど、それでも前を向いて一年一年を積み重ねていけるとこまでいくしかない、これはそんな病気なんだと父や叔母から説明を受けた。
それでも、センセイの奥さんは積み上げていく時間の中にきっとなにかを残していくだろうし、
奥さんのいる時間の1秒1秒の記憶を通して周りの人にたくさんのギフトを送り続けていくのだろう。
その人生と行く道を私ももちろん最前列で応援したいし、ずっとずっと見ていたい。
2024年11月30日から中国の入国がついにビザ免除になる。
言い訳に使ってたビザの申請はもう必要ない。
会いたい人には会いに行こう。
これからは、行きたいと思えば飛行機に飛び乗れば会いにいける。
大切な人に会うためにみんな国境を越えて、
距離も越えて。
私は私がやれることをやろう、信じる道を行こう。
そして、バリキャリになっちゃって、金稼いじゃって、運命の人に出逢っちゃって、結婚とかしちゃって、その最前列に白い髪飾りをつけてるわたしを見る奥さんの姿があることを堂々と夢見ている私は、
自分の人生や周りの人に降りかかる困難や逆境に今、渾身のファイティンがポーズを決めている。
おしまい。