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29歳の週報 第5号 2024年の終わりと来年の抱負
年の最後なので、あんまり表に出したことない本音を書いてみたいと思う。
昔から、何かを書いているのが好きな人間であった。
勉強用に買ってもらったルーズリーフに物語を書き散らし、高校生の時はやってた自分のwebサイトを作るサービスでは毎日毎日日記を書いた。
大学になってからもブログを開設して時間がある学生の特権をフル活用して、
ひたすら毎日毎日何千文字の言葉の群れを紡いでいた。
私にとっては何かを書くのは自然にやることなのだけれど。
世の中の誰しもが皆に得意なことと不得意なことがあるように、文章を書いたり言葉を紡ぐことが苦手な人もいて。
そんな人から見たら私のように課題でも頼まれてるわけでも、金になるわけでもないのに暇さえ見つければ何かを書いてる私という存在は不思議で仕方がないらしく、
「どうして文章書いてるの?」
とか
「作家志望なの?」
とか、そういう言葉をもらうことがあるけれど、
そんな大それたことではないものだから、
「忘れっぽいからかなあ」
と、本当のことを言うと
想定外の答えらしくいつも、
「なにそれ?」
と聞き返されてしまう。
私は何でもかんでもすぐ忘れてしまうけれど、忘れたくないことが多いから。
とにかく書き残しておきたくて、目の前の人や国や言葉に心が震わせられたことを言葉にしていくのである。
それでも、人並みの承認欲求を心に抱えている私は、実は何度か文章で誰かに認められたくてコンクールやコンテストや公募に参加したり応募してみたことがある。
だけど、箸にも棒にもかからなくて。
「まあ私はそんなに、賞とか取れなくても書ければいいや」
とちょっとがっかりしながらも、すぐにご機嫌になってまた書きたいことが現れたら文字にすることを繰り返してきた。
だけど、私がダメだったコンテストや企画の受賞作を覗きに行くと、不治の病とか逆境を乗り越えたとか、病気で死んでしまった家族とか。
逆境を乗り越えたり、大きな不幸を背負わない文章ってやっぱ自己満足に過ぎないのかなあ。
とか、考えてみて自分の人生の中に逆境や大きな事件や不幸を探してみても。
私の人生は平々凡々なものであって、
特筆すべき事件も逆境も特にはない。
Twitterやnoteには恋愛や人生論やお金の稼ぎ方を澱みなく滔々と語れる人たちがいて。
外資系金融とか、総合商社とか女社長とか起業家とか。
はたまた、銀座のママとかバーテンダーとか元カリスマキャバ嬢とか。
その肩書きと属性だけで人がその人の話を聞きたいと思うような属性を背負ってる人たちがたくさんいて。
じゃあ、自分がそんな輝かしい属性を背負っているかと言われればそうでもないなあと思う。
私は普通のサラリーマンであり、特別な属性もなければ、伝えられるノウハウや人生論や社会分析もできないし、大きな逆境や不幸に恵まれたり事件に遭遇したこともない。
そんな、どこにでもいる日本社会で生きてる1人の人間に過ぎないのである。
そんな私にも書きたいことや書き残したい出会いや、自分の人生の上では大きな事件に出会ったりしたことはたくさんあって。
そういう一つ一つの瑣末な出来事でも、言葉にしたからにはもっと読まれてみたいなあという欲を一丁前に持っていてた。
それで、このnoteも始めてから3年目の今年。
ひょんなことから過去に書いたものが大きく広がって、3ヶ月前の自分には想像がつかないほどにたくさんの人たちに自分の言葉が届くようになった。
嬉しかったことはたくさんあるけれど、
1番嬉しかったのは、とにかく自分の毎日を切り取った小さな出来事で、
わたしの心の中にはすごく大切で残しておきたい出来事でだったことがたくさんの人に広がってたくさんの人の心に手をかけられたことが嬉しかった。
自分のポリシーとして、人の死や、悲しい事件や逆境がなくても誰かの心を動かして心を温めるものを書く、というものがある。
とにかく自分の綺麗な感情も汚い感情も全部包み隠さずに書いていこう。
というものがあり、これが本当に実現できたことが嬉しかったです。
ブルガリの記事も、
香港の記事も
女友達のことを書いた記事も
そして、蘇州で犠牲になった中国のおばちゃんについての記事も。
全部全部等身大の私が、自分の気持ちを飾らずそのまま言葉にさらけ出して書いたものであり、
月から金まで頑張って会社で働いてる私が暇を見つけて、自分の周りに言葉にしたい出来事を探して。
現実社会で二転三転しながらなんとか世に出して来たものでした。
だから、その言葉が広く届くことが自分にとっては、
「ああ、書いて良かったなあ」
という何よりも素敵な満足感に繋がっていっていました。
自分が人の書いたものや発信やsnsをぼんやりみながら思うことがあって、
最近は、
ネガやマイナスの言葉が端っこに追いやられて、
建前の明るい言葉や絶対批判されない正論やキラキラに塗りつぶされているような気がしている。
本当はどんな人間にでも他人を羨ましがったり、ムカついたり、腹が立ったり、ムッとしたり。
そういう感情があると思うのに、
誰しもがみな、清廉潔白でなんでもない顔をして生きていて、きっと私もそう見えてるんだろうなあと思っている。
2025年はもっとそのままを語りたい。
明日に向かうエネルギーが尽き果てたやる気のないやるせない気持ちも、
誰かを死ぬほど羨ましく思う気持ちに折り合いをつけるためによくわからない理屈をこねる瞬間も。
ダメなことも失敗したことも全部全部言葉に載せて、もっともっといろんな感情を言葉に変えていく一年にしていきたい。
人間の心の中に誰しもがもってる、ネガが悪いものではなくて、そのままそこにあるものだってことを澱みなくそのままに、私の胸の中から外の世界に出していくことをこれからも続けていきたいし、それはこれからどんなにたくさん書いていこうとこのスタンスだけは大切に抱きしめていたい。
年末はいつもワクワクしていて、次の年への期待は止まることはないけれど、
こんなにワクワクした気持ちで新年を待ってる大晦日は久しぶりで。
私は2025年は自分の人生にとってとんでもない一年になると予感している。
みなさん今年はこんな私に出会ってくれてありがとうございました!
書いたものを読んでくれてありがとうございました!
来年もぜひよろしくお願いします!
私はずーっとこのまま変わらずにこのままならなく平凡でどうしようもなくて私なりに崖っぷちの人生をそっくりそのままお送りします。
来年も読んでもらえますように!
欲を言えばたくさんの人に読んでもらえますように!
間違ってても恥ずかしくねえんだ!
他人が羨ましくて眠れない夜だって生きていくんだ!
そういう感じで来年も何卒見捨てず気長に、
いい一年を一緒に過ごしてまいりましょう!
おしまい!!!!!