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フツーの街にならないで。

香港、と言う言葉を初めて聞いたのは、
山東のど田舎でその村一番の金持ちの娘の家にお邪魔した時のこと。

中秋節も近かったあの日、
彼女の家で「これ食べて!」と月餅を渡された。

この頃、村で唯一の日本人女子大生だった私はその村の人たちからたくさんの月餅をもらい、中国の伝統のお菓子なのだ、というプレゼンを数えきれないほど受けており、若干月餅にうんざりしていた。

彼女がくれた月餅は、なんだか他の月餅と違って少し小さくてギンギラギンの包装ではなくて、控えめで洗練されていて。

何より、簡体字ではなくて繁体字で書かれていた商品名に、「あれれ?」と思って。

「昔の漢字を使ってるの?」

と聞いたら、

「これは、香港の月餅なの。パパが取引先からもらったんだって。やっぱり香港のはすごく美味しいし全然違うんだから!食べてみてよ!」

と言われて、恐る恐る包装を解いて齧ると、甘いカスタードがとろりと出てきて、そのあまりのおいしさに「うわあ…」と声が出てしまった。

香港。

それは、大陸のど田舎においては憧れと都会への羨望の眼差しを向けられる対象だった。

その時初めて、聡明な彼女から、
香港の歴史を聞いて、香港の「一国二制度」と言う言葉を聞いたのもその時が1回目。

思えば私の頭は大陸一色で。

他のことには興味がなくて、だからこそよくわかんない状態で中華圏に飛び込んだものだった。

甘くてとろっとしたカスタード月餅を食べながら、一度香港に行ったことがあるという彼女の香港旅行記を聞いて、いつか香港に行ってみたいなあとぼんやりと思ったことを昨日のように思い出す。

それから、香港人の元彼氏と知り合って、恋愛して。

2019年の夏に初めて香港に行った。

大陸とは全く異なる熱気とパワーに飲み込まれるように香港に夢中になった。

広東語教室に通ってみたり、
7年住めば手に入れられるという永久居民というものに憧れてみたり。

とにかく、病気みたいに香港のことばっかり考えていた。

香港は、どんな人の人生にも事件を起こしてくれそうなワクワクする予感を与えてくれる。

英語と広東語と北京語飛び交う国際的な環境と、
世界中の金と物が街を血管のように止まることなく流れ続けていて、世界中の面白い物や綺麗な物が集まってきていて。

それでいて、東洋と西洋、独裁と自由、あらゆるものの境界線としてあらゆるものを許容して受け入れてくれる懐の深さがあって。

一分一秒たりとて、同じ瞬間がなくて姿を変えてしまう街を自分の人生の舞台にできたなら、
私の人生だってその一分一秒を永遠に変えて面白く、ドラマティックなものになるんじゃないかって。

ウォンカーウァイの映画を浴びるように何回も何回も再生して、フェイウォンの歌声を聞きながら、いつか片道切符で香港に行く日のことを想像して胸をドキドキさせていた。

香港移住のビザの要件を見て、就労経験3-5年の欄を何回も何回も見つめては、新卒の2020年4月1日の社会人一日目の夜、2023年3月31日をあと何日かと指折り数えていた。

3年の間に色んなことがあって、私は香港人の彼とはお別れしたけど。

香港への思いは変わらなくて、就労ビザを目指してあいも変わらず奮闘してた。

コロナが終わってからは3ヶ月に一回は香港に通って、帰りの飛行機では「絶対また来るからね!」って香港に祈るように挨拶しながら、
香港をカメラに閉じ込めるように何回も何回もシャッターを切った。

でも、香港に会うためにはいつだって会社を休んで頭を下げて航空券を押さえてホテルを取って。

お買い物して食事をして。

香港で私は消費することしかできなくて、悲しいくらいにお客様だった。

私が憧れた三カ国語を自在に操る香港人とビジネスの舞台で会えたなら‥だ淡い夢を持っていたところから、

否、会いにいこう!っていう夢を持って。

私が行きたくてしょうがなくて香港に行くんじゃなくて、香港に呼ばれて何かをしに香港に行ってみたい。

ということが、私の目標になった。

そして、社会人5年目の夏にそれは現実になった。

LCCではなくて、キャセイに乗って。

ドミドリーではなくアクセスバッチリの外資系のホテルに泊まって。

私は会社から与えられた任務を遂行する為に、香港に行くことになった。

連日パソコンの入ったカバンを片手にスーツで香港を駆け抜けるタクシーの中で、色んなことを考えていた。

そして出た結論は、

「私はもう香港に来ることはないだろう」

ということだった。

夜にこっそりホテルを抜け出して、一人で夜の香港を歩いた。 

かつて眠らない街としてキラキラ輝いていたメインストリートの光は歯が何本も抜け落ちたかのように、光を放たない空テナントの暗闇で。

デパートに入ってみても綺麗な包装紙でカモフラージュされた空室の群れの中に開いてる店舗を探すような状態で。

北京語飛び交う街の中で耐えきれなくなって少し泣いてしまった。

これじゃまるで、中国と同じじゃないか。

いや、イケイケドンドン景気上上な2010年代の上海や深圳みたいになったなら、それはそれで別の道だってあったかも。

それだって絶対嫌なんだけど。

でも、空テナントまみれのデパートも、空虚な赤いスローガンも、それは中国の大都会なんかじゃなくて、まるで中国の南のどこかのありふれた街とおんなじ空気が流れてるじゃないか。

香港が持っていた唯一無二の空気が、中国と重なってしまった。

それはもう唯一無二ではなくなりかけているということ。

それも、中国の第一線にもなりきれなくてただの中国の一つのちょっと個性的な街、みたいな位置付けで。

家賃と物価が高いだけの街になってしまっていた。

その昔、私がまだ大学生だった頃。

中国から香港に向けて羅湖を通って境界線を超えたとき、心がふわりと軽くなったことをずっとずっと覚えている。

別に大陸で何か後ろめたいことしたわけでもないし、大陸がただの日本人大学生に対して何か恐ろしいことをしてくるなんて全く思わない私なのに、それでも香港に入った途端にいきなり身体中の力が抜けて座り込みたいくらいに安心したのだ。

「おつかれ!ここまできたら大丈夫だからね!」

なんて、香港に肩をポンポンって優しく叩かれた気がした。

あの空気はもう2度と味わえない。

あれは、香港のあの瞬間の唯一無二の空気だった。

香港はどこに向かって走るんだろう。

90年代の思い出とネオンの残像を抱きしめてどこに行けばわからないどん詰まり状態。

このまま赤く赤く前進したとしても、所詮は余所者。

北京をあそこまで怒らせて、
外資の撤退が進んで、圧倒的な経済力もなくて。

中国自体の経済もどう考えてもそんなによろしい状態じゃなくって。

余裕をなくした中国に、これから先深圳や上海のような一級都市として扱ってもらって、かつてのようにありがたがってもらえるのかどうかも今となってはかなり怪しい。

今香港では、香港人すら高すぎる香港の物価に根を上げて週末に物価の安い大陸にお買い物に行くのが流行っているらしい。

「週末深圳に向かう人たちでバスが埋まるよ」

なんて話を取引先の人から聞きながら、

空テナントのことを考えていた。

「香港と深圳の行き来は増え続けてて、これからも香港は大陸とのビジネスにおいて重要な位置付けであり続けるだろう」

と、言われたけれど。
それはかつての中華ビジネスのハブとしてではなく、中国大陸の建前を突破するための抜け穴として使われたり、あくまで物が通る中継地だったり、香港はそういうものとして便利に使われて。

もはや香港は大陸との商談の舞台ではなくて、中国ビジネスの装置として機能するに過ぎないのだということを突きつけられた気がした。

金融とか、そういう一部のエリートの仕事は残るかもしれないけれど、私が好きだった香港は勝ち組のエリートだけを受け入れるのではなくてスポンジのように全ての人を吸い込み、許容する優しさと寛大さを持っていた。

絶え間なく香港を流れ続けていたモノや金や人の流れが緩やかにゆっくりゆっくりになっていることを感じた。

止まることを許されないこの街が、もはやどこに行けばいいかわからなくなって行き詰まっているように見えた。

そしてなにより、私が香港に感じていた、

曲がり角を一つ曲がるだけで何か面白いことが起こるような。

手を取られて走り出したくなるような、そんなあらゆることへの可能性を秘めた高揚感と緊張感入り混ざる活気をこの街のどこにももう見つけることができなかった。

香港と私の間に、私と香港しか知らない秘密や思いがたくさんある。

香港に出会って、香港が最も変わっていった期間に香港に触れられたこと。

香港が有していた唯一無二の境界線に流れていたあの空気を胸いっぱいに吸い込めたこと。

その事実は紛れもない真実で、ずっと変わることはない香港が私にくれた一番大切な宝物だ。

最後の日、先輩たちの食事の誘いを断って一人でスターフェリーに乗ってチムサーチョイを目指した。

シャッターを切るように何回も瞬きしながらこの瞳の中に香港を閉じ込めていられるように、自分の中に焼き付けて置けるように大好きな香港の夜景を胸に閉じ込めた。

かつて日系企業がジャックした、夜景の看板たちが簡体字の看板に覆い尽くされていて、
多くの人がそう言うように香港のこの夜景は今の香港を残酷なほどに素直に映し出すものだと思った。

この夜景を作り上げる看板が、またいつか色とりどりになればいい。

世界に192の国があるのなら、192カ国の看板が掲げられたらそれがいい。

お願いだから。普通の街にならないで。

ただの中華都市になんてならないで。

唯一無二の他のどこにもない香港でいてよ。

中国が嫌になったとき。
パワハラが辛くて死にたかったとき。
いつも流されてばかりの私に立ち止まる機会をくれたこと。
中国一色だった私に、いろんなことを考えさせてくれたこと。
香港を通してしか味わえなかった名前のつけやれないたくさんの感情を教えてくれたこと。

一つずつ思い出してお礼を言った。

いつも香港に来るとPandoraのブレスレットのチャームを買っていたけれど、この私のpandoraのブレスレットにこれから先香港のピースが入ることはないと思う。

最後のピースは香港のネオンを模したチャームにした。

香港のトラムのチャーム、地球儀のチャーム、香港に来るたびに一つずつ買っていった。

一つ一つに思い出がこもったブレスレットに香港の思い出が追加されることはもうないと思うとやっぱり悲しくて泣けてきた。

これからも私はここに来るだろう。

仕事はがっつり中華圏と結びついているし、
これが私の人生だって思っててこれからも追いかけていくから。

もしかしたら香港に住むことだってあるかもしれない。

でも、お祭りが終わってしまった後のような。

バッドエンドの映画のエンドロールを永遠に見続けるような。


そんな心に穴が空いたような気持ちだから。

さよなら、香港。

今まで本当にありがとうね。

香港があったから折れなかった瞬間があったし、
香港に救われた心の延長線状に今も私の人生はあるって思ってるよ。

大好きだよ。

また会おうね。

飛行機が離陸するとき写真は撮らなかった。

別々の道を歩く時が来たと、香港も私もわかっていた。

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