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王将のおっちゃんと広東のおっちゃん

2018年11月。
一年の中国滞在を終えて帰国した私がいちばんに向かった場所は大学でもなくて、バイト先の王将だった。

大学一回生からバイトしていた京都の学生街にあるそのフランチャイズの王将を営むご夫婦と息子さんにはいたく可愛がっていただき、私はこのバイト先が好きすぎて名残惜しすぎて渡航前日までアルバイトを詰め込み、いつもより豪華な賄いを食べさせていただき中国へ送り出していただいたのだ。

だからこそ、帰国したらまず真っ先にバイト先に行ってまた働かせてもらえるように頭を下げに行くと決めていた。

夜着の飛行機で帰国して、次の日の開店時間と同時に王将に駆け込んで

「店長!」

と叫ぶと、

いつも仕込みをしている奥のスペースから中華帽をかぶった白い料理着姿の店長が

「あらまあ!蒼子ちゃん!お帰りなさい」

と顔をくしゃくしゃにして笑った。

「今日は、あのまた働かせていただきたくお願いに来ました。」

というと、

「あらー。そうなの?どうしようかなあ」

と茶化す店長をつつきながら、奥から出てきた奥さんが私の名札とエプロンと長靴を持ってきて、

「みんな帰ってくるのを待ってたのよー。いつから入れるの?」

と言ってくれた。

バイトのシフト管理や本支部とのやりとりなどの事務手続きを一手に引き受ける息子さんものそっと奥から出てきて私とシフトの相談を始める横で店長は少し考えて突然いたずらを思いついた子供のような顔になって、

「そーや!センセイや!センセイに連絡せんと!」

と叫ぶように言って外へ飛び出していった。

結局その日センセイという人物とは連絡がつかなかったらしく、しょんぼりと店長は帰ってきて。

でもすぐにころりと気持ちを切り替えてシフト管理係の息子さんに「蒼子ちゃんは次いつ働きにくるの?」と聞いていた。

センセイ。

それって誰のことだろうと思った。

だって私はすでにこの時3年王将でバイトしていて、大体の常連さんの顔も名前も呼び名も把握していたのだ。

でも、センセイなんて存在は聞いたことがなかった。

少し気になったけど、その日はそれよりもまた働けることになったのが嬉しくてそのままご飯をご馳走になって家に帰った。

そして、それから2日後私は1年ぶりのバイトに出かけることになった。

いつものようにエプロンつけて、調理帽をかぶって名札をつけて皿を洗ったり注文を取ったりがすごく嬉しかったのを今も覚えている。

そしてその時はやってきた。

無我夢中でテイクアウトのオーダーの電話をとってる間に、1人のお客さんがカウンターににこにこ笑って座っていた。

大仏さんのような顔をしたその男の人は、
なんだかひどくワクワクした顔をしていた。

大急ぎでお水を持って行き、

「ご注文はお決まりでしょうか?」

と、問いかけた私にその人はひどく困った顔をした。

「あ、蒼村さん。その人你好(にーはお)しかわからへんよ」

と店長が何故か教えてくれた。

「ごめんなさい、このお店は中国語のメニューがないのですが、どんなものが食べたいですか?」

と中国語で聞いてみると、その人は写真付きのメニューからニラ玉を指さしながら、

「ここの店いつもご飯が多すぎるからいつもの半分にしてくれってお願いしてほしい。」

と中国語でお願いをしてきたので


「店長、ニラ玉定食でご飯は半分ですって。店長がよそうご飯がいつも多すぎるって言ってますよ」

と言うと、

「なあなあセンセイ?
どうや?うちの蒼子ちゃん。
いまのおうてる?」

と店長はその人のところに走っていって目をキラキラさせて質問した。

事態が読めない私に、その人は少し申し訳なさそうに笑いながら訛りひとつない流暢な日本語で

「こんにちは。ソウです。
店長が中国語が話せる日本人の女の子がバイトしてるっていつも私に自慢してて、
あなたと中国語で話してほしいってお願いされたんですよ。」

と気まずそうなその人と、いたずらが成功した子供のようにケラケラ笑ってる店長とのテンションの差になんだか和んでしまって私も顔を崩して緩く笑ってしまった。

「それにしても、よく勉強しましたね。
発音は正確さに欠いていますが、大丈夫です。完全に分かりましたよ」

と、率直に感想をぶつけてくれた。

話を聞くにその人は、京都の某大学に1年間研究員として広東省の大学から派遣されてきている准教授とのことで、ひょんなことから店長の持ってるアパートに下宿することになったらしい。

王将フランチャイズ一筋50年の店長は、
高度経済成長期の日本の企業戦士や労働者たちを支えに支えてほぼ無休で働きそのお金で店からほど近いところに学生用のアパートを建てていて、
昔は物件を見つけるのが難しかった外国人の学生や実習生に積極的に部屋を貸し出すということを行っていて、現在もそれを続けている本当に素晴らしいところのある人だった。

かねてから、日本の平均的な下町で現地の人と関わりながら暮らしてみたいと思っていたセンセイにはこの物件はうってつけで、少し年季の入った学生アパートを1年間の日本滞在での住処に決めたらしい。

センセイの出向先の大学が自分の大学だったことから、その日私と先生はwechatとLINEの両方を交換して、暇になるとセンセイの研究室に遊びにいったり、開店前の王将のカウンターで下拵えをする店長を横目にセンセイの論文のネイティブチェックを行ったりした。

2019年の夏までの任期の先生と私と店長はほぼ毎日会っていたし、夏休みの繁忙期にはセンセイも店長に皿洗いに駆り出されて店内を駆けずり回っていた。

「中国の自分の学生が日本でバイトする話を聞いてずーっと羨ましかったんですよ。
まさかこの歳で叶うなんてね」

と笑いながら、盆祭りのめちゃくちゃ忙しかった日の閉店後に店長からもらった葡萄を店内に広げて食べながらセンセイはおかしそうに笑った。

「先生は日本に留学してた時バイトとかしてなかったんですか?」

「留学?そんなものしたことないですよ。
私は広東省にある広州の外国語大学で日本語を勉強したあと、ずーっと広州で日系企業で働くところから始めて通訳者になって働きながら大学院に行って今の大学で教職って仕事にたまたまつけただけなんです」

だから、今回の日本の大学への出向の話が決まったときは本当にうれしかったんですよ。

と、目を細めていた。

当時40代も中盤だったセンセイにとっては日本での今回の滞在は初めての完全独り暮らし。

初めての自由な生活だったのだ。

センセイはいつも店長や私といろんな話をしたがったし、
店長の古典落語に出てくるようなきれいな上方弁を興味津々でメモしたり、質問したりしていた。

「店長の大阪弁はアニメやドラマのキャラクターとはもちろん違うし、広州にいる関西人の関西弁とも全然違いますね」

「当たり前やがな。大阪の人やら兵庫の人の話さはる言葉と一緒にされたらかなわんわあ。
私は生まれも育ちも京都ですぅ」

と、まんまと京都人の地雷を踏みぬいて店長にこれまた聞き取りにくい京都弁で投げ返されているセンセイをみているのが楽しかった。

センセイのいる毎日は楽しかった。

いつも論文の合間にご飯を食べにくる先生に、
「またニラ玉かいな。うちの店ぎょーさん他にメニューあるんに」
と、店長は言うけど、先生はいつもいつもニラ玉を食べていた。

大量のニラと玉ねぎと卵を店長しか製造方法を知らないという調味料で炒めるニラ玉はほかの王将で食べるのとは全然違う。
ここにしかない味で本当にやさしくて毎日食べられる味で、お店でも人気のメニューだった。

このお店だけでなく京都には、店長のように王将という企業が始まってまだ間もないころにフランチャイズとして暖簾分けをして30年以上続けている店舗がまだたくさん残っていた。

そういうお店は、開業当時のオリジナル定食屋メニューが数多く残っていて、
私がバイトしていた王将はその中でも最古参の店舗で特に炒め物料理の種類はどこにも負けない種類と味を誇っていた。

50年近く王将の厨房に立ち続けカウンター越しに世界を見つめる店長は、自分の中にしっかりとした核と世界観を持っていた。
だから店長の言葉は特有の力を持っていて私はこの店長からいろんな影響を受けた。


いつもお店が暇になる16時頃の時間帯には静かな店の奥で京都新聞を広げて隅から隅まで目を通していた。

そして、バイトに来た私に
「蒼子ちゃん。今日こないなことあってんでー」
とその中でも自分が面白いと思ったことやびっくりしたことを話してくれた。

そしてそれはセンセイに対してでも同じで、
センセイもまた店長の話には興味津々で新聞の記事を頼んで切り取らせてもらったり持ち帰ったりそんなことをしていた。

そんな風にしてあっという間に時間は過ぎ去り、
センセイは帰国の日を迎えた。

帰国が近くなるにつれ店長が寂しそうに
「論文書き終わらんかったら帰らんでええんと違うか?」などと子供っぽいことを言い、センセイは困った顔をした。

それでも最後の日はやってきて。
9月のある日、センセイは借りていた部屋の鍵を店長に渡して関西国際空港から広州へと帰っていった。
最後にお店にあいさつに来て大きなスーツケースを抱えて先生が乗り込んだ車が見えなくなるまでいつまでもいつまでも店長は店先に立ち尽くして見つめていた。


センセイが京都を去ったあともいつも店長とセンセイの話をした。
ときには私のスマホを使ってwechatで電話をかけて話したりもした。
広州からきれいな広東の夜景を切り取った絵葉書も届いた。

はがきの裏にはびっしりと「ぜひ広州にきてほしい」というセンセイの思いが書き込まれていた。


店長はその絵ハガキをお店に飾って、時々黙って見つめていた。

そしてある日、バイトが終わって賄いを食べていた私の目の前に、
ドン、といきなり2人前の餃子を出してきて

「なあ、蒼子ちゃん。センセイに会いに行かへんか?」

と覚悟を決めたように言ってきた。

毎週月曜日定休日。

店長は一週間に一回しか休めない。
そんな店長が連休を取るのは1年間にお盆と正月だけである。

カレンダーは11月。
店長はお正月休みに中国にいるセンセイに会いに行きたいのだとわかった。

当時すでに70を超えていた店長にとってそれはすごく勇気が必要な決断だったに違いなくて、
それほどまでに店長はセンセイに会いたかったのだ。

大学生の私にとって、年末の飛行機のチケット代は決して安くはなかった。
店長は私の分のチケット代を払うとも言ってくれた。

でも、私はそれを断って。

チケット代が高いこととか、実家に帰らないこととか、そういうことがどうでもいいと思うほどにワクワクしていたのだ。

広州への直行便はなかったから、深セン着の航空券買って、店長の海外旅行保険の手続きも手伝って。

私と店長は12月30日、関西国際空港から中国に向けて飛び立った。

深センからは新幹線で一時間でセンセイの街につく。
もともとは新幹線で行くはずだったのに、センセイはそれを許さずに、
深セン在住の自分の友人にお願いして私たちを車で広州に送り届けるように手配してくれていた。

店長にとっては30年ぶりの中国だった。

ギラギラと光る深センのビル群に圧倒されながら、
車の窓に張り付くように外を見ている店長は、あれはなんだこれはなんだと私に質問を投げつけ続けた。

そして、不意に車が止まり
「つきましたよ」とセンセイの友達が言った。

私が予約していたホテルではなかったので、
「そんなはずはない。ここではない」
と私が言うと、先生の友人は静かにほほ笑んだ。

遠くから、子供を抱いてものすごい勢いで走ってくる人がいた。

「店長!!!」

センセイの声だった。

28度の暑い暑い12月の広州で、コートを着て車を降りた私と店長。

センセイは近くまで来ると、抱いていた子供を下ろして、店長の手を取り力強い握手をした。

「店長!店長!ようこそ広州へ!本当に来てくれましたね。うれしいです」

「センセイ本当に来ちゃったよ。ほんまに遠かったわあ。」

と店長は照れ隠しをするようにそんなことを言いながら笑った。

「センセイに持ってきたものがあるんよ」

そういうと店長はスーツケースを開いて、水筒を取り出した。

「本当は、先生が帰るときに渡したかってんけど、あんときは荷物が多かったさかいにな。
センセイ好きやったやろ?うちとこのニラ玉」

店長のセンセイへのお土産は、店長しか作り方を知らない店長特製ニラ玉のたれだったのだ。

センセイも私も意味を理解するのに数秒かかって、私より少し早くに意味を理解したセンセイは、
感情が洪水したように少しだけ泣きそうになりながらきつくきつく店長の手を握りなおした。

「ようこそ、ようこそ。蒼子さん、店長を連れてきてくれて本当にありがとう!」

センセイに中国語でそう言われて、私は真冬の広州の空を仰ぎ見る。
ゆるい南国の風にヤシの葉っぱが天を仰ぐ私の視界の中に揺れていた。

そうでもしないと、泣いてしまいそうだったから。

広州までの距離3500キロメートル。
店長と、店長の水筒に入った大事なニラ玉のたれを広州に連れてくるのは本当に大変だったけど、本当にこの場にいれてよかったと心の底から思った。

センセイに予約したホテルを事前に伝えてあったが、センセイは私が予約していたよりもずっといいホテルに取り換えてくれていたのだ。

目の前のホテルはどっしりと格式のあるたたずまいでこのホテルが安くはないことを学生の私にすら分かった。

その次の日から3日間、センセイは店長と私を広州のあらゆる綺麗な場所に連れていき、
広州のあらゆる名産品を店長の舌に味わわせた。

センセイは店長と並んで歩き、店長に自分の街を得意げに紹介して歩いた。

夜になると先生の奥さんや二人の子供やたくさんのお友達とご飯を食べた。

「センセイはこんなに大きくてきれいな街から来た人だったのね」

巨大なビル群を見上げながら店長はため息をつくように言った。

「でも広州の空は狭いですよ。私は京都の広い空が好きです」

とセンセイは言った。

そういう話をずっとしていた。
まるで先生が京都にいたころに毎晩王将でしていたように。



最後の日に、レクサスに乗って私と店長のお見送りに来てくれたセンセイに店長は黙り込んでいた口を開いた。

「405号室。ずっと空室にしとく。センセイいつかまた日本においでね。そしたらまたすんだらええねん。
センセイの子供が住んでもええよ。待っとるさかいにな」

405号室。
先生が住んでいたアパートの部屋の番号だった。

今度こそ先生は堪えきれず、顔をくしゃくしゃにして笑いながら泣いていた。

「そんなもったいないですよ。ちゃんと貸して金稼いでくださいね」

心の底からここに来てよかったと思った。
王将の厨房からここまで店長と一緒に空を飛んで海を越えて国境を越えてここまで来れて。
ここまでこないとみられないすべてが目の前にあった。

「你好 2020」



ビルにそんな浮かれ切った文字がライトアップされていた2020年1月2日。
私と店長は広州を後にした。

ほどなくコロナが始まり、いろんな大変なことが店長にもセンセイにも襲い掛かり、
私とセンセイと店長が毎晩言葉をかわし、ご飯を食べた王将も今はもう空き地になってしまった。

すべてがやさしくて、あきれるぐらいに綺麗な広州でのあの瞬間、世界は完ぺきだった。
一瞬でもその完璧な世界を味わえたことを大切な大切な記憶として抱きしめて今日も私は生きている。

そしてあのキラキラ光る素敵な瞬間をこの先何度でも自分の人生に起こしてやる、という野心もまたこの胸の中に眠っているのだ。





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