記憶と詩で編み物をする
人はどれくらい覚えていられるのだろう。
今までの記憶はハードディスクのようなものに入れられて、ほとんどが思い出されない。開かれないフォルダに入っている画像のように。
「今」というときを存分に生きているのだったら、それはそれで幸せで、過去の記憶なんて眠っているままでいいのかもしれない。
「線香花火のさきっぽ」
火がついたその時から
だんだんと大きくなり
今
火花を散らして
生きているわたし
長いたましいの旅の
一番さきっぽで
一瞬のようないのちを
生きている
いつか
火花が静まり
火球がぽとっと
うちゅうへ落ちる
ジュッと言って
たましいになるのかは
分からないけれど
そのときまで
ここで
いろいろ感じて
ときどき悩んで
いっぱい楽しんで
たくさん、愛そう
この詩はわたしが書いたもの。
わたしは詩を書き、物語を書いている。
詩をはじめて書いたのが美術専門学校のとき。それから、17年経とうとしている。
「手製本」という自分で作る本で詩集や絵本を作ることに始まり、詩集を出版したり、アンソロジーの詩集にも詩をたくさん使っていただいた。
絵本は文章しか書けないけれど絵を描く人と共作で作ったり、自作の詩を朗読する活動もやっていて、小さなホールからカフェなどで地味に活動してきた。ご縁があって合唱曲になっている詩もある。
それからweb制作のお仕事や、デザインのお仕事もやらせていただいている。
あわやまりのHP
SNSもやっているものの、1年前くらい前まで、詩以外で私的なことを書いて発信することはあまりやってしていなかった。世代的にSNSを全くやっていない人も多い。自分自身のことを発信することに抵抗もあった。
でも、書きたいことはいっぱいあって、どうやっていこうかなと考えていたとき、noteとの出会いがあった。
今年、初めてエッセイの仕事をいただき、金子書房さんのnoteに執筆したのをきっかけ。金子書房さんのnote「おやすみ、に含まれる愛」
それから、親しい友人や遠い天才の言葉が、もっと個人的なことを書いてみよう、という気にさせてくれた。
子どもの頃のこと、学生の頃のこと、地球一周船旅のこと、家族のこと、パニック障害とうつのこと、そして創作のことなど、自分自身のことを書いてみようと。
「記憶クッキー」
初めて来た町を歩いていて
疲れきったところに
小さな洋菓子屋さんを見つける
今日はぐるぐると知らない道を歩き
足は痛いし腰も痛い
テラスに丸いテーブルがふたつ
そのひとつに座った
紅茶しか頼んでいないのに
それを飲んでいると
パティシエらしいおじさんがやって来て
クッキー、よかったらどうぞ
とクッキーを二枚乗せた
小さなお皿を置いて行った
そのクッキーを
ひとくち、ふたくち食べ
一枚食べ終えると
何か忘れていることがあるように
思い始めた
もう一枚食べると
その思いは一層ふくらんで
何を忘れているのか
一生懸命考えるが
思い出せそうにない
紅茶もなくなり
あたりも暗くなってきて
お会計をしようとした時
焼き菓子の棚に
「記憶クッキー」
というのが並んでいた
さっきのおじさんが
レジに立っていたので
あの、このクッキー
さっきいただいたのですか?
と聞くと
いや、あれはちょっと違うのです
まだ試作中のものでして
と微笑む
この、記憶クッキーって
どんな味ですか?
と聞くと
それはですね
全部食べ終えると
欲しい記憶が
自分の中に蘇るんです
生まれる、と言っても
いいかもしれません
つまり
本当に体験したことでも
そうでなくても
自分の中にね
そんなこと
あるんですか?
ええ
例えば、その記憶があるから
元気に
自信を持って
前を向いて
生きて行けるようになる
みたいなね
本当に?
本当かどうかは
どうぞご賞味ください
と微笑む
私は記憶クッキーを
一袋買った
その洋菓子屋さんの場所を
誰にも教えていない
何度かあの町に行っては
探したのだけれど
見つけられなかったのだ
私は今でも
あの町に行っては探している
「記憶クッキー」を売っている
洋菓子屋さんを
詩集「記憶クッキー」より
過去の記憶。
わたしは、幼少期のことはことさら「眠っている記憶を思い出したい」と思う。
今から過去を振り返って、もう会えない人からの言葉を受け取れたら、例えば愛された記憶みたいなものを受け取れたら、それだけで生きる力が湧いてくるような気がする。
他にも、どうしても忘れられない記憶や、鮮明に覚えている記憶、何かをきっかけにしてよみがえった記憶。
そんな「記憶」と「詩」を編むようにしてここに書いていこうと思う。
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