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「早尾貴紀×山本浩貴 抵抗と虐殺をいかに描くかーーアート/コミック・ジャーナリズムの可能性」に行ってきました

 調子悪くてどうしようかと直前まで思い悩んでいたものの、勢いで飛び出して結果行って良かった。冒頭、今回の主催者であり、版元及び編集でもあるtype slowlyの圓尾(まるお)さんからご挨拶があって、早尾さんからオファーが来て、翻訳することになった経緯が語られたのだけど、そこには圓尾さんとジョー・サッコの前作(『パレスチナ』)との出会い、会社を辞めたあとで今の出版社を興す前というご自身の状況、10.7以降のパレスチナの現状、色々とそこにも物語があってのオファーで、早尾さんもその心意気があって引き受けたという話。
 これはのちのち会場で対談者お二人の話に上ったり、最後の質疑応答でも似たようなことが出もしたのだけど、アート(カルチャー)に出来ること、にも繋がることで、無力感や虚しさを感じることは多いのだけど、それでも、でも、自分にできることは何かを模索する中で今回のように本書が日本語訳で誕生したり、また今日のようにアカデミアのシンポジウムでは並ぶことはないだろうな、というお二人が並んで話をしたり、そのお話を聞いて、本書を読んで、パレスチナやアラブのお菓子を食べて、参加した人たちがまたそれぞれの生活の中で何かに繋げたりしていくのだろうなと思って、それは希望と言ってもいいのではないかと思った。(会場で会った漫画家のさいきまこさんが「こういうことを考えている人がリアルにいるというのが分かって嬉しい」と仰言っていて、それも大事って思った。)
 今日のテーマがコミックジャーナリズムということで、コミックジャーナリズム自体もスローメディア(この作品のような)的なものとファストメディア(風刺画や新聞四コマ)的なものに分かれるのではないかなと思った。その分かりやすさによるリスクというか、プロパガンダにも転用される危険性はファストメディア的な方によりあるなと思って、田河水泡の「のらくろ」とシャルリー・エブド襲撃事件を思い出したりした。

 上記、大塚英志氏の記事にある「戦争を愉快で楽しいものに転化する、まんがの政治性」と「(現実を)描かないことが『国策』」という言葉は今の日本でも十分通じる問題であると思う。
 シャルリー・エブド襲撃事件(2015年)は当時ISなどのテロが多発していた時期でもあり、同時期にシリアで後藤さん、湯川さんがシリアでISに拘束されその後殺害される事件もあったので「私はシャルリー」「私はケンジ」などのプラカードを持って追悼する場面がニュースでも報じられていたことを覚えている人も多いと思う。で、このシャルリー・エブド襲撃事件に関しては自分で大いに反省していて、当時ニュースでその映像(シャルリー・エブド社前でキャンドルを灯してプラカードを下げて追悼する人たち)を見て涙ぐんだり、「私はケンジ」と他国から連帯を示す人の姿に胸が熱くなっていたのだけど、その時はシャルリー・エブド紙がイスラム教やムスリムを風刺の度を越す表現の絵を載せ続けて批判や非難(のちに脅迫にまで発展する)を受けてもやめなかったこと、それがイスラモフォビアを煽ることとフランス在住のムスリムたちには不安や恐怖に陥れるものであったこと、そしてそれをやめないことがまるで正義や表現の自由の行使のようにすり替えられていたことなどに、全く、本当に全く思い至らなかった※。だから襲撃されてもやむを得ないと言いたいわけではなく、西側メディアや日本メディアが「イスラム組織ハマス」と名指すことでテロ組織のように印象付けることにも似ていて、簡単にそのイメージ操作に取り込まれてしまう危険性があるなと思った。そのシャルリー・エブドの時の反省がなければ私は今起きているジェノサイドも見誤っていた可能性はある。
 それに対して、本作のようなスローメディア的な漫画は映画や絵画など他のカルチャー領域の作品と相対する時と同様に読んでいる時(鑑賞している時)は自分対作品の個人的な関係を持って没頭するので、反射的に善悪や敵味方と断じるより、そこから自分が何を思うか、見出すか、という方に向かっていく気がする。
 そう思うと、ファストメディア的な作品は一発で通じるところがマスに流通しやすく(シェアされやすく)「場」や「群れ」に効くもので、スローメディア的な作品は「個人」に効くものなのかな、と思う。いい悪いというより効果、効能が違うというか。そんなことを考えながら聞いていた。

 ※シャルリー・エブド襲撃事件とフランスの表現の自由とその裏にある差別について、こちらが参考になるかと思います。

 そして本作の話に戻ると、ジョー・サッコがたくさんの人(当事者、関係者、遺族、目撃者…)に一つの事件について話を丹念に聞いていくところはオーラルヒストリーを収集する歴史研究のオーソドックスな手法でもあり、ジャーナリズムでもある。ただ、その膨大な個人の話を聞いていく中には記憶違いや感情的になってしまうものなど「本当か?」と思ってしまうことも含まれているという早尾さんの話に答えて、山本さんは歴史学的な手法と美術的な手法の間になるものなのではないかと仰言っていて、どんなにやっても完全にはできないし、矛盾もあるけれどそこを作者が引き受けてやっていることに作品の強度が生まれていると言っていて、確かに作中作者が自問自答しながら話を進める場面や、取材中レイチェル・コリー死亡事件(2003)※が起き、複雑な思いを抱く場面などもあり、こういう挟み込みが出来るのは漫画ならではだよなと思った。
 実はご恵贈いただいてからだいぶ経つのにまだ読み終わっていなくて、それは作品の強度というものにも繋がる気がするのだけど一人ひとりの語りが濃すぎて本当にサクサク読めない。ページを手繰る手が止まらないほど勢いよく読める漫画というものもあって、その違いはなんだろうな、と思ったけどそれは当時を実際に生きた人たちの言葉の強さと当時の状況、描いている作者のその時の状況、現在のパレスチナの状況、これを早尾さんはこの作品が持つ時間性のように言っていたけど、時間を行き来して思い巡らしてしまうこともあってより読み込むのに時間がかかってしまうのかなと思った。
 全部読み終わっていないのに言及するのもなんだけど、作者の「引き受け」感は確かに凄まじく、話を聞いていく一人一人のシワ一本も逃さない表情の動きの描き込みに圧倒されるのだけど、それはそのまま作者が相対していたものそのものなんだよね。その「個」の語りの凄まじさがあるから、山本さんが指摘していた「一人一人の顔(個)」を埋没させてしまう場面(それは現在起きているジェノサイドにも通じる)の迫力と恐ろしさもより伝わってくるのだろうなと思った。



 ※レイチェル・コリー事件について

 話の筋とは全く関係ないけど、大胆なコマ割りや一面のベタ、同じ人が同じ位置で話していく連続コマなどの手法は赤塚不二夫1000ページを初めて読んだときの衝撃に近いものも感じた。漫画ならではの部分とその有り体の漫画ならではのフォーマットも超える部分が同居してる感じというか。あと、闇の描き方も強烈で夜がただ暗いというだけでなく、心象風景としての暗さや、静かな暗さ、闇の中に色々とうごめくものも含めた暗さ、この闇を読んでゾワゾワする感じは手塚治虫や井上三太を読んでゾワゾワした感じにも似てる。漫画が好きな人ならそういう発見もあるのではないだろうか。

 今日はお二人ともスナック社会科にそれぞれご出演いただいたこともある組み合わせで、会話のキャッチボールというよりかは、お互いにリスペクトしている同士が順番にお話を拝聴するような流れになっていてとても良かった。
 またギャラリーや小さな場所などでのイベントだとマイクの音声が悪かったり、下手するとマイクもなかったりで行ったけれどもほぼ聴こえなかったということもあるので(難聴のため)最近はできるだけ前の方の席&文字起こしソフト併用で臨むのですが、しっかりしたミキサーもあって登壇者だけでなく質疑応答の場面でも誰の声もクリアーに聞こえてよそのイベントでは久々の聴こえる感を味わえて個人的にはそれもとても嬉しかった。
 が、会場自体は細い階段を上がった二階でこれは車椅子や下半身に難がある人は来ること自体が叶わないだろうし、事前にアクセシビリティについての案内も見かけなかったので、それは折り込んでも良いのではないかと思った(自分が気づかなかっただけであったらごめんなさい)。自分でやってもどこに行ってもアクセシビリティは本当に課題だなと思う。私も周知忘れはちょいちょいやらかすし、よそに行って反省も発見も毎回ある。

 だけれども小さな会場に満員の客席で色んな人がいて、大事なお話を聞く、という場所が本当にあちこちにあるといいなと思った。この前の早尾さんが言ってた「翻訳しかできない」ということも役割分担であるように、仕事や学業の傍ら路上に出る人もいれば、研究者として学術のアプローチで参加を模索する人もいれば、表現活動をしている人がその生業の中で形作っていったりとか(私的には画家の松下真理子さんと漫画家のさいきまこさんが全く違うフィールドで活動しながら同じ場所にいるというだけで鼻血が出るほど興奮した)、そういう様々な人や気持ちの結節点になるのではないかなと思う。私も頑張ろう!と思いました。
 とりあえず、この濃さとボリュームで2,300円は法外なのでみんな読もう!

 あと、山本さんが途中で引いてたこの本も面白そうだった。翻訳出してほしい。

https://read.dukeupress.edu/books/book/162/Visual-OccupationsViolence-and-Visibility-in-a

また読み終わったら感想を書きます。

 そしてこの三連休中は、いよいよ臆面もなく隠さず、ガザ殲滅に向けてイスラエル軍が動き出した週末でもありました。生きたまま焼かれるガザ北部の人たちの映像を見て辛い思いをされている方もたくさんいると思います。もう本当にどうしたらいいかわからない。
 早尾さんの言うように、いつも間に合わないかもしれないし、言葉で止めることは出来ないかもしれないけど、歴史は繰り返しぐるぐる同じようなことが回っているなら、それが同期することもあるかもしれない。あと、サラ・ロイさんの本もそうですが何か起きた時の答え合わせやそこに至るまでが知れる書物があることは本当に重要だと思う。
 知ること、話すこと、憶せずやって行きましょう。

2024/10/16 一部修正しました。
2024/10/17 一部修正しました。(買ってから→ご恵贈いただいてから。大変失礼いたしました)


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サトマキ
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