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『世界に一つだけの花』の一週間前に槇原敬之がつくった曲。と【植物にシンパシーを感じる理由】

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記事の前半❶❷では、槇原敬之と水野良樹のお二人の対談。

記事の後半❸❹❺❻では、(人間の)命を、植物に喩えたくなるアーティストさんたちのきもちを考えてみました。今回はYOSAKOIとは直接は関係ない記事です。

❶命/情熱/本音に執着する私を、まちがってないと肯定してくれるマッキー。

思えば僕はずっと「命」に執着してる気がする。ふへんてきなテーマに出会ったんだから、ずっと向き合うことは不自然なことではない。ではないが、まあ固執しすぎかなと不安にもなることもある。水野良樹との対談でマッキーが語ったことが、僕に指針を与えてくれた。

マッキー)僕は世界に一つだけの花をかいたあと、「さあ、これをどうバラバラにしていこうか」と思ったんです。要するに、このテーマを人の数だけ伝わりやすい形にして変えていこうと。ひとりのアーティストが一曲で全て言い得るなんて不可能だから、手を替え品を替え、その普遍性を伝えていかないといけません。もっと言うと歌わないといけないことは、絶対に歌わなくちゃいけないってことです。だけど、そんなふうに思えるテーマって、1人のアーティストに1つ、2つくらいしかないんじゃないかな。

⏩ 自然と考え続けてしまうテーマがあるなら、向き合い続けるのは、すごく自然なことなんだって思えた。マッキー、ありがとうございます。



❷命に執着する私が、植物へのシンパシーを感じるのは自然なこと。(とマッキーが思わせてくれた。)

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同対談にて

マッキー)SMAPからオファーをもらって(中略)、最初に作った『Wow』という曲は、ボツになったんです。ちょうど木村拓哉さんがお子さんを授かった時期で、赤ちゃんが産まれる喜びを歌った曲をつくったのですが。
水野良樹)これはこじつけかもしれませんが、子どもの誕生をテーマにした曲と、『世界に一つだけの花』って深いところでつながっているんじゃないですか。

⏩これを聞いて、「命」に執着している僕が動物以上に植物にシンパシーを感じているのも、不思議なことじゃないんだって思った。


また、武田鉄也のラジオで何年か前に、

人間も植物だ。(と言えるんだ。)ってはなしをしていた。何かを体内に入れるための口があって、一本の管を通って、外に出すための口まで繋がっている。人間だって、一本の管という意味では植物なんだって話。

マッキーをはじめ、多くのアーティストが植物(木、花、種、等)を使った比喩表現を使って、人間のナニカを表現してきた。命だったり、夢だったり、個性だったり。

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◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎こっからは先は、いろんなアーティストの表現を見つめることで、より具体的に、植物のどんなところにシンパシーを感じてるのかを理解したい。◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎




❸ポルノグラフィティの『フラワー』が、とってもこの時代っぽい植物表現。



なぜ こんなとこに咲いた? その花も理由(わけ)を知らず
ただ一輪 荒野に芽吹き 人知れず薫っている
そこに咲いてるだけで こんなにも美しい
弱さと強さを持つ花よ
愛でられるためでなく 色を誇るためでもなく
息づいてる
I wanna be so strong, Even if I'm alone.
I wanna be so strong, Flower.(ポルノグラフィティ 『フラワー』)

Pointは2点。

🅰️植物(木など)は、自分が咲く場所を自分で選んでない。そしてその場から移動できない。【ジャンプもない。】枝も根っこも昨日の自分から360度どこかへ伸びるしかできない。

🅱️その状況を【受け入れて】いて、懸命に生きてる様子は外からみてて【強い】なあと見える。





❹植物と僕たち人間は、似たような制約をかかえてる。


🅰️【ジャンプがない。】について人間の場合。

『何者』朝井リョウ:「私たちは、何者かになんてなれない。自分は自分にしかなれない。痛くてもカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。」
『ロングホープフィリア』:「ましてや自分 僕は僕を離れられぬやましさを背負って」

誰か自分以外の人に強い憧れがあっても、その人にはなれない(ジャンプできない)。能力がジャンプできないのは当たり前だとして、感情も、似たように自由じゃない。僕の感情は過去の環境や経験と、今の目の前にあるものの掛け算によって引き起こる。ジャンプはない。



❺植物は【うけいれる】の天才。だから【強い】


🅱️【うけいれる→強い】について人間の場合。

多くの人と同じように僕も、幸せに生きたいし、強くありたいと思っている。その【強い】の秘密をしりたいともおもってる。

ふだん接する人の中でも、【自分で選択(決断)した人】は強いなあと感じる。選ぶということは、他の選択肢の可能性を「捨てる」ということであり、「諦める」ことであり、「受け入れる」ことである。又、自分で選んでなくても【受け入れる】がうまい人もいる。

うちのばあちゃんは生前、【うけいれる】の天才だったし【決断力】の天才だったしめちゃめちゃ【強】かったと思う。強いというのは、堂々としてるという言葉もおそらく的外れなくらい、いつもあまりにも自然体だった。女性は出産もあるし、たぶんそういう風にプログラムされてるのか、さらに昭和初期を生きたばあちゃんの世代は、自分で決められないこともたくさんあったろうから、その中で身についたことかもしれない。ばあちゃんをみて、こうありたいなと思う気持ちと、植物をみて思う気持ちはたぶんかなり似てる。

加えて、星野源のラジオでこんなことを話があった。

強くあるには無防備であること。悲しいきもちを感じないようにしたら、楽しい気持ちとかもかんじなくなっちゃう。

って言ってた。なるほどー。なるほどー!

そう考えると、植物ってあまりにも無防備にみえるもんなあ。だから強さを感じるのかもなあ。



❻オワリを意識するということ、と植物。

花が咲いて→枯れるを一回の人生とすると、彼らはすごく短い人生を懸命に生きてる感じがする。

オワリを意識】することは、先述した【うけいれる(あきらめる)】につながる。そのことによって【未完成でもいいから今の精一杯】を瞬間瞬間で生きていけばいいんだって気持ちになる。

OKAMOTO'S 『DOOR』:「結局いつかは例外なく 終わりが来て 本当の意味や 解けない謎はそのまま                何もかも嫌になっても 何度でもドアを開け続けんだ」
竹原ピストル 『復興の花』:「足が根っこに似てるのは おなかと胸が茎に似てるのは 手のひらが葉っぱに似てるのは 頭がつぼみに似てるのは
きっと偶然ではないでしょう                               ちっぽけでいい
精一杯の 精一杯の花を咲かせるんだよ」
演劇『わが星』


僕は、もともと宇宙をテーマに表現できないかな?って考えてたときがあって、でも考えれば考えるほど、宇宙の「無限なカンジ」が、どこかしっくりこなかった。YOSAKOIには「無限のエネルギー!」って感じで相性が良さそうなのに、踏み切れなかった。EARTHの方が自分と地続きなカンジがした。

それ以来、宇宙っぽい表現をしてるものをみると、どう表現してるんだろう?と気になる。あと、表現者のメンタルも気になる。「無限」と向き合うとメンタルおかしくなるから。

この『わが星』という演劇は、演出の見た目は宇宙(月)っぽい。植物や海などの有機物なカンジがいっさいない。でもこの演劇では「無限」を扱ってない。むしろ、途方もなく永遠に感じる「地球」だっていつかはオワリがくる、という視点にたってる。ヤラレタ!って思った。


🌟まとめ🌟

人間の命を、植物に例えるのは自然なこと。植物には、人間のあり方の象徴的な部分があるから。

自分からは逃れられない、☘うけいれることで強くあれる、☘オワリを意識することで、未完成でもいいから今を精一杯!って思える








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