歌集を読む・その6
こんばんは。今夜扱うのは我妻俊樹『足の踏み場、象の墓場』。2016年、短歌同人誌『率』10号に誌上歌集として掲載されました。
我妻さんは1968年生まれ。この年は千葉聡さん、森井マスミさんなどと同じです。吉川宏志さんも1969年1月生まれだったはずなので同学年ですね。
にせものの貴方が(きれい)ずぶ濡れで足りないねじはバイクから摘む
我妻さんの歌は散文化の難しい圧縮や接続がなされててなかなか話しにくいですね。「にせものの貴方がずぶ濡れで」を認識しながらバックで「きれい」が流れてる感じですかね。きれい、というのは歌の本筋ではないんだけれど、これをここに挿入することで「ずぶ濡れで」が生きてくる。さて、「にせものの貴方」とは何でしょうか。まぁあんまり深入りしないでなんかそういうのがあるんだな、と受け入れてしまうのが一番丸いとおもいますが……。にせもの、を軽めに解釈するならば、本来の貴方とか、あるべき貴方、理想の貴方みたいなものを〈私〉は想像していて、そこからのズレから「にせもの」という言葉が出てきてるのかもしれません。「にせもの」と「足りないねじ」は縁語っぽいですもんね。「貴方」と「貴方'」のズレを埋めるねじをバイクから摘む……みたいな。摘んでるのは〈私〉かなあと思ったけど、貴方でも読めるでしょうね。
「足りないねじ」は、「この人は頭のねじが一本足りない」みたいな慣用句からの借用ですが、それを強引に詩的世界の現実にしてしまうわけですね。ねじを摘むというのが良くて、ここにこの歌の生命感があります。バイクもねじも無機物だけど、「摘む」ことによって、「にせものの貴方」にも生命が与えられる感じかなあ。
心でこわれたものの瓦礫の山である体をすこしずつもたれあう
ふつうは体が内包するものとして心を捉えがちなんだけれど、この歌では心の側から体を捉えています。いわゆる定義付けの歌(体=心でこわれたものの瓦礫の山)なんですが、わからないような共感できるような微妙なラインを攻めてきますね。体が心の下部構造である、みたいな感じなんですかね。たとえば、切手を水のりで貼り付けたときの切手からはみ出た水のりの部分が水のりの身体である、みたいなそういう感覚かなあ。自分で言ってて半分くらいピンと来てないけれど。
「すこしずつもたれあう」でちょっと抽象的なところから距離を取って、ふたりが肩を並べてる姿で歌を着地させるのがいいですね。並んだふたりの体も、お互いの心でこわれたものの瓦礫の山なんだと。しかしまあ、「心でこわれたもの」も厄介なもので、心自体はこわれず、その中にある何かが壊れたり壊れなかったりして、壊れたやつが体として表出するっていう構造ですよね。有無を言わせずこの作品世界ではそういうもんなんだー!って感じですね。そう思うとわりと受け入れられるとおもいます。
自分にもあぜ道があるということをあなたの挨拶で思い出す
憶えたことすべて忘れて想像でうろつくかもねいつか上海
こういう作品には、「可能性」が眠っていて好きだな、とおもう。私にあぜ道があり、あなたの挨拶でそのことを思い出す可能性。すべてのことを忘れて上海をうろつく可能性。思い出すことや忘れることは、いつ、どのように、なぜ起きるかが不確実で、私たちは日々そういう世界を生きながらたくさんのものを思い出したり忘れたりしてきたし、これからもしていくでしょう。思い出す、の歌の方は現在形で書かれていながら、読者である私の未来の可能性を提示されているようにも見えます。上海の歌が可能性への想像の歌であることは「かもね」というフレーズからも明らかですね。
あぜ道の歌は、「あぜ道が」「あると」「いうことを」「あなたの」「挨拶で」「思い出す」と、初句以外が母音の頭韻になってて、句またがりも相まってかなり心地よい読み応えです。この歌に「いやいや人間にあぜ道はないやろ〜」みたいに思う人はたぶん我妻さんの歌へのチューニングが合ってなくて、そもそも彼の歌の前では〈私〉が純然たる人間であるかなんてわからない。言葉がつながり、ねじれ、切断され、溶接され……という快楽に身を任せながら味わうのが気持ちいいんでしょうね。彼の歌の中では「あなたの挨拶によって自分にもあぜ道があることを思い出す」というのはかなり穏便な詩的構造だとおもいます。
いつか上海、は文体の緩んだよさと、記憶が失われたりすべてを忘れたりすることへの想像や可能性が軽やかに歌われる変な開放感があります。記憶を失って外国の街をさまようことは怖いしさびしいとおもうんだけど、それをないまぜにしながら開放的な叙情を生み出すことに成功しているのではないでしょうか。「うろつくかもねいつか上海」がやはりパンチラインなのでしょうね。高層ビルのあるアジアの都市、って感じがこの歌のうろつきにはうってつけな感じがする。ロンドンとかパリだとちょっとおしゃれすぎますからね。
そっくりな首都高が心にあり首都高の出口を出れば心がつづく
現実の首都高とそっくりな首都高が心にあるよ、という把握を起点にして、首都高の出口が心に接続してゆく、という感じでしょうか。あるいは、心の外の〈私〉が首都高の出口を出ると、心の中でそっくりな首都高を走っていたものも、それにつづいて出口を出る、という読みもできますね。つづく、という動詞の意味解釈がなかなか難しいところではあります。というか私は直感的に前者の読みをとりましたが、「心につづく」ではなく「心がつづく」なのでちょっと微妙かも。でもどちらの解釈でも、心の中と心の外のダイナミックな往還が魅力的ですね。
それでは今日はこの辺りで終わりにしましょう。おもしろかった。
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