歌集を読む・その3
こんばんは。今日読んだのは内山晶太『窓、その他』です。2012年、六花書林刊行。タイトルは「まど、そのほか」と読みます。ちなみに発行元は「りっかしょりん」。
内山さんは1977年生まれ。その1でもちょっと触れましたねー。ちなみに黒瀬珂瀾さんもこの年です。多いなあ。ラッキーセブンなのかな。
今日は平日・夏バテ・バイトの後ということであまり読み進められず、次回と2回に分けて読んでいきます。
空間に手を触れながら春を待つちいさな虫の飛んでいる部屋
かけがえのなさになりたいあるときはたんぽぽの花を揺らしたりして
くぅ〜。くぅ〜〜。たまらんですね。「春を待つ」の主語は虫ではなくて〈私〉なんでしょうね。べつになにもしてなくたって「空間に手を触れ」てるんだけれど、それを言うことによって可視化される空間の手触りみたいなものがあるわけですね。そうやって微妙に立体感を得た部屋の中をちいさな虫が飛んでいる。そんな部屋の中で〈私〉は春を待っている……。うん、いいですね。私は「空間」萌えみたいなのがあってこういうのに弱いですね。
「かけがえのなさになりたい」は過剰な感じもするけれどいいですね。かけがえのないものになりたい、というのとかけがえのなさになりたい、というのは異なる位相の表現で、「かけがえのなさ」それ自体はかけがえのないものとは限らないような気がします。
たんぽぽの花を揺らすことにかけがえのなさを感じているとして、〈私〉はそういう行為のようなかけがえのないものになりたい、と言っているわけではなく、そういう行為に〈私〉が感じるような「かけがえのなさ」そのものになりたい、という感じですかね。話がかなりヤバげになってきてよくわからなくなってきたぞ。かけがえのなさ、というのはinevitability、つまり「必然性」とかざくっと言い換えてしまうとしたら、「必然なものになりたい」と「必然性になりたい」というのはやはりちがう。
もちろん、この「かけがえのなさ」が誰かにとってのものなのか、〈私〉にとってのものなのかというのは決めづらいことなのですが。。私はどちらかというと後者で解釈しているような気がします。誰かにとってのかけがえのなさになりたい、だと結局「かけがえのないものになりたい」と似たところにボールが落ちてしまうのではないかなあ。
観覧車、風に解体されてゆく好きとか嫌いとか春の草
せつなしとプラスチックのスコップで土を掘りたしあたたかき日に
人界に人らそよげるやさしさをうすき泪の膜ごしに見き
いい歌がいくらでもあって困る。まだ1章なのに…。
「解体されてゆく」は連体形で、下の句の定時内容が主語なのかなあ。観覧車が風によって解体されることはないですからね。風の中で解体される、という意味なのかもしれませんが。観覧車に乗ってるか、下から見上げてるかしていて、好きとか嫌いとかいう俗な感情だったり、周りに広がる春の草だったりが風でぱらぱらと解体されてゆく、みたいな。観覧車というと洒落た都会っぽい感じもしますが、葛西臨海公園の観覧車は周りに草があったなあとか思い出しますねえ。
スコップの歌とか、人界の歌とかを見ると、この〈私〉は、人間の体をしているけれど、すこし異星人的というか、抒情世界を生きているような感じがつよくしますね。3割ぐらい天国にのぼりつつある感じがする。そういうのをセンチメンタルというのかな。でも私としてはこの感じはすごく心地良いです。「泪の膜」みたいなのが内山さんの歌での世界への対峙の仕方にすごくあるんじゃないか。
目を閉じて河原まできて目をあけて菜の花の点滴に触れたり
「点滴」は暗喩で、〈私〉を安らかに・元気にしてくれるものという感じですかね。べつに、「菜の花に触れる」とだけ書いてもそういう感じは出るのかもな、とも思うけれども、やはり「菜の花の点滴」という表現に内的な詩的世界、内山さんの抒情世界へとひきずりこむ力がある。
歌のモードの作り方というか、言葉の選び方や流し方、韻律の作り方みたいなところが半端なく心地良い。字余りや句またがりはあるんだけれど、決してせっかちな感じにはならないのがすごいですね。
さて、そろそろ寝なきゃ。今日はここまでにしましょう。
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