過食と痛風、愛玩と淫行 | 映画『女王陛下のお気に入り』に寄せて
まずは予告編をご覧くださいませ。
STAFF監督:ヨルゴス・ランティモス脚本:デボラ・デイヴィス、トニー・マクナマラ製作:セシ・デンプシー他撮影:ロビー・ライアン衣装:サンディ・パウエル美術:フィオナ・クロムビー編集:ヨルゴス・モヴロブサリディス音楽:オスカー・スクライバーン
CASTオリヴィア・コールマンエマ・ストーンレイチェル・ワイズニコラス・ホルトジョー・アルウィンジェームズ・スミスマーク・ゲイティスジェニー・レインスフォード
2015年に公開された映画『ロブスター』をまだご覧になっていない方は、今すぐ手元の携帯端末からこの映画を観ることができる配信サイトにアクセスするか、近隣のレンタルショップに駆けつけるでもして、映画を堪能されることをお勧めする。そして可能であれば、観終わった後にもう一度見返すことをお勧めする。繰り返し観ることの小み4時間は、あなたにとってこの上なく残酷な寓話体験であり、且つ現代社会を俯瞰したときに見られる人間存在の滑稽さ、その真実の末端に触れることができる稀少な時間となるだろう。そして、この映画はコメディである。
ヨルゴス・ランティモスが築き上げてきたフィルモグラフィーのなかに彼の作家性を表す特異な点を見出せるとしたら、それは“囚われ人”の物語であるということだろう。彼の映画では、名もいえぬ何かによって自分の精神を拘束され、身動きがとれず、徐々に自身の運命や因果のようなものに囚われていく人々の姿が、不条理劇や寓話のかたちを借りて描かれていく。その主題へとつながる例証をあげるならば、彼の諸作には登場人物が目隠しをさせられるという描写が度々あり(それは遊戯的や暴力的な場面、もしくは具体的に視力を失うというかたちで起こり得る)、その作品世界を端的に表現するモチーフのひとつとして機能している。
そしてまた彼の特性を別の側面からあげるならば、一度見ただけではその全貌を把握することが困難な前衛的な映画を作り上げてきた出自を持ちながらも、今やハリウッドのスター俳優たちとも確固たる信頼関係を築き上げ、自身の極めて個性的なそのスタイルを曲げることなく、芸術的評価と商業的評価を勝ち得てきた稀有な作家だといえるだろう。
そのランティモスが『聖なる鹿殺し』という怪作の次に作り上げたのは、18世紀初頭のイングランドの王室を舞台に、絶対的な権力者であるアン女王の寵愛を奪い合うふたりの女性の駆け引きを支配/被支配の関係性のなかから描き出していく宮廷ドラマだ。
映画の冒頭、アン女王(オリヴィア・コールマン)が、女官長であり王室の歳費管理官でもあるレディ・サラ(レイチェル・ワイズ)を自室へと誘い込み、戦争の功績を称えて宮殿をサプライズでプレゼントしようと、その大きな模型を彼女に見せるくだりがある。サラはそれを受けて喜ぶどころか、戦争は継続しているのだから節約すべきだと逆にアンを咎める。アンはサラの気を引こうとしたことが裏目に出たことを悔やみ、落ち込んだ表情を見せる。
この妙に幼稚で遊戯性に富んだやり取りというものが全編に渡って繰り広げられるのが、本作の特徴のひとつである。
前述のような遊戯は幾度となく反復される(宮廷内で政治家や軍人たちによって催されるアヒルのレースや、舞踏会での奇妙なダンスシーンなど)。
この遊戯性はやがて、召使の身分へと地位を落とされ、そこから這い上がろうとするアビゲイルと女官長のサラとの間で行われる女王の寵愛をめぐる権力抗争へと発展していく。
第91回アカデミー賞で見事主演女優賞に輝いたオリヴィア・コールマンが演じたアン女王は、史実としてもそうであるように、過食に苦しみ痛風を患い、車椅子での生活を余儀なくされるほどの肥満体型だった。そのためオリヴィア・コールマンの演技は、体全身を使った大芝居よりかは、顔の表情で感情の機微を表現する芝居が目立ち、時たま車椅子から立ち上がったときに見せる巨体のシルエットがより強調されて描かれている。幼馴染であるサラにかまってもらえず、窓から飛び降りようと芝居を打つ場面では、サラによって引き摺り下ろされた直後に、床に這いつくばり彼女のふくらはぎに抱きつき、そのうえ「美味しそう」とまで言って食らいつく素振りを見せるときの、あの大柄な体躯をくねくねと動かして見せるさまは異様な迫力を感じさせる。
アン女王は確かに魅力的であり、オリヴィア・コールマンの主演女優賞にも納得だが、この映画はどちらかといえば、アビゲイルとサラを含めた、三人の女性がともに主役であるように魅力的に描かれている点に特徴がある。
物語は一見すると、召使であるアビゲイルの出世物語としての体裁を見せ、意地の悪いサラや傲慢なアン女王に比べて、不幸な境遇にあったアビゲイルに共感させようとするが、終盤ではその構造を見事に反転させ、予想もつきえない着地をみせるところに本作のシナリオの面白さはある。
アビゲイルという女性は、始めこそ自身の不幸な生い立ちを語りもするが、その内心に秘めているのは如何に女王の寵愛を勝ち取り、再び地位のある身分へと返り咲くかという野心だけだ。アンの前でわざと咳込み、彼女の傷を癒すため薬草を摘んできたのは自分であると遠回しに明かしたり、アンとサラがレズビアンの関係であると知ってからは、自身の肉体までも利用し、勘違いを装って女王のベッドに裸のまま眠り込み、その裸体を晒して彼女を誘惑する。宮廷の人間を演じる役者のほとんどが英国出身の俳優であるのに対して、エマ・ストーンだけがアメリカの俳優であるというのも、より異物感を強調したキャスティングだろう。
女王の求めに対して、一方的に甘美で中毒性のある蜜を送るのがアビゲイルであるならば、サラはその逆に毅然とした態度で女王に本音をぶつけ、手厳しい言葉を放つ対極に位置する存在だ。しかし、そうしたサラの存在こそが周囲の甘い誘惑から女王を守る防波堤のような役割を担っていたことが明かされ、その逆にアビゲイルはサラから地位を奪い取るが、私利私欲に動いていた彼女の内心はまさに空洞であり、満たされない欲求から日夜乱痴気騒ぎを起こし醜態を晒すのが後半の展開である。
映画の中盤では過食から嘔吐していたのは女王だったのに対して、終盤ではアビゲイルが酒に酔い嘔吐する場面が描かれている。反復して描かれる嘔吐は、醜いものの象徴が移り変わったさまを表しているのだ。
サラが宮殿を去る際に、女王に対して扉越しに言う科白から察するに、本作は「優しさは虚栄であり、冷酷さは愛の裏返しなのだ」と教示している物語だとも言えるだろう。
こうした主人と召使の従属関係や、第三者を加えての三角関係の破綻を描いていた先行作品としては、ジョセフ・ロージー監督の『召使』(1968)が挙げられるだろう。ともにイギリス映画である点や、主人と召使という社会的な階級差を表層的に描きながらも、心理的な部分ではその支配/被支配の関係性が逆転していくテーマ性などには共通した部分を見出せる。
描こうとした主題に対して、適切な撮影の手法がとられている点も指摘しておきたい。ハットフィールド・ハウスの館内で動き回る人々を超広角のレンズで撮影し、その歪められた空間のなかに映し出してみせる映像は、きらびやかな内装で飾り付けられたこの宮廷ドラマに妙な味わいを残す。ランティモスの言葉によれば、この歪められた広い空間のなかにいれば、貴族も召使もみな囚人のように見えるからだという。彼の作品にはしばしば、形容しがたい何かによって囚われている人々の姿が描き出されている。長編デビュー作である『籠の中の乙女』がまさにその典型だ。第三者の視点から見たら理解できないような、当事者にしかわからない複雑な心理を、寓話的な不条理劇のなかで描いてきたランティモスが、今までとは異なるモチーフとして試みた歴史劇のなかでも同様の手腕を発揮させて見せたことは、次なる高みへの期待を膨らませる。ランティモスにしか描けない世界がそこにはあるのだ。
主に新作映画についてのレビューを書いています。