死に魅入られた男の月世界旅行 映画『ファーストマン』によせて
皆が当たり前のように持ち歩き、普段の生活にはなくてはならいほどの必需品と化したスマートフォンに、一体どれだけ高性能なコンピュータが組み込まれているか、もはや想像する人もいないだろう。科学技術の進歩は日進月歩どころではない速さで進んで行く。NASAが1960年代に進めていたアポロ計画で利用されたコンピュータより、ぼくたちが手にしているスマートフォンに内蔵されたコンピュータの方が遥かに優れているという話を聞くと、生活だけが便利になった世の中で日々の雑務に追われて、50年後の未来を夢見る余裕もないこの生活を、50年前にいったい誰が想像しただろうと考えてしまう。
STAFF監督・製作:デイミアン・チャゼル脚本・製作総指揮:ジョシュ・シンガー撮影:リヌス・サンドグレン
CASTニール・アームストロング:ライアン・ゴズリングジャネット・アームストロング:クレア・ファイエド・ホワイト:ジェイソン・クラークディーク・スレイトン:カイル・チャンドラー
映画『ラ・ラ・ランド』でアカデミー賞監督賞を受賞し、世界中から注目されたデイミアン・チャゼルが、再びライアン・ゴズリングを主演に迎えて製作された『ファーストマン』は、アポロ計画を物語のベースに敷きながらも、そこで描かれた世界は、人類初の有人宇宙飛行や月面着陸に沸き立つアメリカの輝かしき発展の歴史ではない。アポロ11号に搭乗し、人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロング船長の、暗く孤独な物語である。
NASAの宇宙計画を描いた作品は『アポロ13号(1995)』や『ライトスタッフ(1983)』、近作でいえば『ドリーム(2016)』など諸作あるが、それらとの相違でいえば、『ファーストマン』はとにかく暗く陰湿なムードが漂っている作品だ。映画は冒頭からニールの愛娘の死の場面を見せ、その出来事がニールの生涯のトラウマとなったかのように、娘との思い出の記憶が時よりフラッシュバックするかのように挟み込まれる。しかしニールという男は、ほとんど感情を表に出さないため、娘の葬儀の場面でも泣く素振りも見せない。ニールを演じたライアン・ゴズリングの演技に定評がある理由は、ライアンが同じく寡黙な運び屋を演じた『ドライブ( 2012)』のような無表情に近い顔を浮かべながら、口元の動きだけで細やかな感情を表現して見せたからだ。
アポロ計画を下敷きとしながらも、映画は主に人間ドラマに主軸が置かれているが、その中心にいるのは何もニール・アームストロングだけではない。ニールの妻であるジャネットもまた特徴的な存在として描かれている。娘の死に象徴されるように、宇宙飛行士であるニール自身もまた、常に死と隣り合わせの状態であり、そうした夫を懸命に支えようとする妻の姿や、地上にひとり残されることの苦悩を描いている場面など、従来の映画ではあまり見られなかったような女性側の視点というのも新鮮に見えるだろう。
宇宙ものでありながら、決して派手な映像演出で観客を魅了する映画ではない。本作で特徴的なその映像のスタイルは、とにかくカメラがニールの顔に近づき、宇宙船の操縦の場面でも船内の全景を捉えるようなカットは見せず、彼の手元や船内の小窓から見える外景がかすかに見える程度だ。これは実際に当時の宇宙船の船内がスパム缶と呼ばれていたほど、狭く設計されていたことに起因している。製作のマーティ・ボーウェル曰く、監督のチャゼルが目指したのは内蔵で感じるような本能的な作品を作ることで、リアリティを出すためアナログ感の表現にこだわりを持たせた。そしてまた、本作の課題は、観客をいかにしてコックピットに入れるかであったと語っている。そのため、撮影のリヌス・サンドグレンは1960年代当時の雰囲気を醸し出すため、フィルムでの撮影にこだわり、家庭でのニールの生活は親密さを出すために、16mmフィルムでホームドラマのようなドキュメンタリーに近い手法で撮影され、宇宙の場面ではIMAXの65mmフィルムで撮影されている。また、飛行中のシーンや宇宙の場面の映像は、CGで合成されているかのように鮮やかな映像を見せるが、メイキングの映像を見て驚かされたのは、その特撮映像の技法である。それはLEDウォールと呼ばれる高精細な超大型の湾曲したモニターを配置して、そこに背景となる空や宇宙の映像を投影し、ほぼ実物大に制作された宇宙船の模型のなかから、まるでスクリーン・プロセスのようにアナログな手法で撮影されている。カメラはニールの目を通して、実際の船内の狭さや宇宙空間での孤独を観客に追体験させるかのようだ。
月面への着陸場面では、宇宙ものの類似作品に見られるような、船内の映像と地上の司令室とのやり取りをカットバックで見せるような映像の切り返しがなく、地上からの指示は音声のみで、画面は常に船内にいるニールを中心に映し出される。月へと降り立つ瞬間にはカメラはほとんど彼の視線とシンクロし、彼が見た光景そのままが映し出される。月面に広がる地平線とその彼方にある地球の姿を見つめるとき、まるでニールの脳内を過ぎったかのように娘との思い出の記憶が唐突に入り込む。彼がどれだけの苦悩を抱えてここまでやってきたのか。地上から遥か38万kmも離れた場所に立っていながら、故郷の惑星を見て思うことは亡き娘のことなのだ。
月に初めて降り立った男を、決して完璧な英雄として描くことなく、不器用なひとりの父親として、ひとりの人間として、映画は彼を描いたのだ。
参考資料
・ファーストマン オフィシャルパンフレット
・https://www.youtube.com/watch?v=UChwuyWVzsI
・https://wired.jp/2019/02/16/damien-chazelle-interview/
主に新作映画についてのレビューを書いています。