何者でもない者たちの物語:烈火の魔女と本読むゴブリン#13
#13.内省と、恥辱と
静かな時間は、耐えがたいほどに長く感じるものだった。
深い失望はやがて色あせ、自らを待ち受ける運命に対する恐怖が徐々に頭をもたげる。
死、そのものをそれほど恐れてはいない―――はずであった。けれども、死の断崖を間近にのぞき込めば、そのときにはまた別の感情が芽生えるかも知れない。
いま、恐れるのは、こんな世界の果てのような場所で、誰にも知られることなく、孤独に死に果てること。消息不明となり、彼女を知る者たちが、その死を知ることすらなく、ただその足跡が砂に埋もれゆくかのように、徐々に記憶から消えていくこと・・・
これは、想定外のことだった。
彼女は、偉大な魔法を探求するために、サントエルマの森を旅立った。いまはまだ、その魔法の探求にすら、足を踏み入れていない。目的のための資金集めの段階。
このまま死ぬとしたら、笑うに笑えぬ喜劇であり、泣くに泣けぬ悲劇であった。
しかも―――サントエルマの森では落ちこぼれであったとしても、サントエルマの森に入門できる時点で、魔法使いとしての腕は卓越している。その、貴重な才能の花が、野蛮なホブゴブリンによって摘み取られようとしている・・・
―――こんなところで死ぬわけにはいかない。
彼女は心に強く念じた。
依然として恐怖は心にあったが、夜闇を駆逐する太陽が地平線から昇るように、強い怒りが恐怖を隅に追いやろうとしていた。
この負けん気の強さも、母譲りだ―――あるいは、会ったこともないが、父もそうだったのかも知れない。
ヘルハウンドには押されっぱなしであったが、意識を失う最後の瞬間、彼女は今までにない力を引き出せたのではないかという手応えがあった。これまで訓練してきたことが、死線のなかで結実する。そんな感覚であった。
なにかのコツをつかんだ。
だからこそ、なおさら、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。彼女の魔法の力には、まだまだ先がある。
「このまま終わってなるものですか。私はまだ、何者でもない」
口元をしばられ、音にすることはできなかったが、心の中ではっきりと、そして断固とした覚悟をもってそう言葉にした。
ともかくいまは生きて、機会をうかがわなければならない。
ほどなくして、一体のホブゴブリンが食事を運んできた。薄緑の肌に黄色い瞳・・・ぶあつい唇の間からは牙が覗く。ゴブリンの中では大柄な方であるデュラモよりも、さらに一回りは大きい。力も強そうだった。
そいつは、それぞれの鉄格子のあいだから、水と乾燥フルーツのようなものを置いて、立ち去ろうとした。
ポーリンは、抗議のうなり声をあげた。口は縛られており、言葉を発することができないためだ。
ホブゴブリンは立ち止まり、暗がりの中でポーリンの姿をまじまじとみた。そして、うれしそうに笑う。
「口が縛られているから、食べれないんだな・・・魔法使い?」
嗜虐的に言うと、ホブゴブリンは腰元から錆びた鍵の束をじゃらじゃらと出した。そして、ポーリンの牢の扉をあけると、のそのそと牢の中に入ってきた。
ポーリンは微動だにせず、鋭い目つきでホブゴブリンをにらみつけていた。
「おおう・・・よくよく見ると、宝石のような鳶色の瞳、すべすべの肌、整った顔立ち・・・」
そう言って、顔をしかめながら右手を振った。
「本当に、醜いなあ・・・人間」
声を低くして、侮蔑するようにつぶやく。
ポーリンは動かず、鳶色の瞳に怒りをたたえていた。
ホブゴブリンはポーリンの間近でしゃがみこむと、まじまじとその顔を見つめた。ぶあつい唇のあいだから漏れ出る口臭は耐えがたかったが、ポーリンはどうにか身をよじりたくなる思いをこらえていた。
「・・・だが、俺はホブゴブリンにしては変わった趣味なんだ、醜い人間」
イボだらけの手で頭を持ち上げると、首元をすんすんと匂いはじめた。
「汗臭さも足りねぇなあ・・・それどころか、ちょっと花の匂いもしてやがる。吐き気をもよおしそうだ」
嫌悪に顔を歪め、乱暴に手を離す。
「・・・だが、俺は醜いものに興奮するんだ。本当は、口のロープを切って、惨めな叫び声を聞いてやりたいが、俺は馬鹿じゃねえ。魔法の呪文は唱えさせないぜ」
そう言って、不器用にズボンを緩め始めた。
虜囚となった時点で、ポーリンはある程度凌辱を受ける覚悟をしていた。けれども、これは予想外だった。「醜い」と罵られながら辱めを受けるとは。
だがこういう輩には、彼女が見せる怒りも、恐怖も、屈辱も報酬となる。ポーリンは、こみ上げる感情を隠して、無表情にホブゴブリンをにらみ返した。こいつには感情を示す価値もない。そして辱めを受けようともせめて一矢を報いる機をうかがうのだ。
「おい、ホブ!女は商品じゃないのか?値が下がるようなことをするなよ!」
向かいの牢からチーグが鋭い声で言う。
ホブゴブリンはくぐもった笑い声を漏らした。
「お前さえいれば、報酬はたんまりだ、チーグ。女ひとり売れなくなったとて、誰も気にとめないさ。豚のエサにしたっていい」
ホブゴブリンはそう言ってから、その考えが気に入ったように満面の笑みを浮かべた。
「そうだな、おまえのような醜いやつは、豚のエサがお似合いだ。嬲ったあとに殺して、そうしてやろうかっ、うぐ・・・」
縛られてはいないポーリンの足が、余裕を見せていたホブゴブリンの股間を蹴り上げていた。だが、腕が縛られているため十分に力が入らず、せいぜいホブゴブリンの言葉を詰まらせ、膝を少しかがめさせる程度の打撃にしかならなかった。
ホブゴブリンは、怒りと、暴力への喜びに満ちた表情で、姿勢を正して立ち上がった。
ラザラ・ポーリンは試練のときを迎えようとしていた。
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