何者でもない者たちの物語:烈火の魔女と本読むゴブリン#14
#14.目覚め
ホブゴブリンは、ポーリンを殴った。彼女は地面に倒れそうになったが、どうにか踏みとどまり、氷のように冷たい目でホブゴブリンをにらんだ。
ホブゴブリンは、倒錯した興奮に身を包まれたように、怒りと笑いを混ぜ合わせた表情を浮かべた。
「いいぜ、興奮するねえ、醜い人間よ」
再びホブゴブリンが拳で殴った。
今度はポーリンは地面に倒れた。殴られた方の顔は赤く腫れ、地に伏した方の顔はほこりまみれになった。
屈辱的な状況―――だが。
ホブゴブリンは、魔法使いの何を知っているというのだろう。しかも彼女は、並の魔法使いではない。サントエルマの森で学ぶことを許された者だ。呪文の詠唱に長い時間がかかると思ったら、大間違いだ―――特に簡単な魔法であれば。
殴られた衝撃で、口元のロープは緩んでいた。
イボだらけの腕が彼女をつかみ、服を引き裂こうとした。
彼女の心の中に怒りの炎が燃え上がり、それは魔力の源泉となった。
母音を中心に構成されたごく短い呪文。こういうときのために、サントエルマの森で訓練していた簡略呪文。
彼女の手が炎を発し、腕を縛るロープを焼き切った。
「?」
突然現れた炎に、ホブゴブリンはためらったが、それも一瞬のことであった。燃える手がホブゴブリンの腕をつかみ、ホブゴブリンは熱さに悲鳴をあげた。服と、肉が焦げる匂いが、ホブゴブリンの強い体臭よりも強く漂った。
「離せ・・・離せ・・・!」
ホブゴブリンが絶叫する。
しかし、もはや炎は止められず、ポーリンが手を離したあともホブゴブリンの身を燃やしていた。
ポーリンは自由になった手で口をしばっていたロープを外す。顎が外れそうで、口が裂けるように痛かったが、それでも言いたいことを言うことはできた。
「これは、慈悲よ・・・醜いホブゴブリン」
彼女は、こんどはゆっくりと時間をかけて魔法の呪文を詠唱した。さらに火力を増した炎が、彼女の周囲に巻き起こり、それは炎の蛇のように周囲をうねった。
―――この感覚。
魔法との一体感を、ポーリンは強く感じていた。そして、強い怒りが燃料となって魔力をさらに燃え上がらせていることを、実感していた。死と、そして死よりも辛いかもしれない恥辱を目の前にして、新たな魔法の力の深淵を覗いた気分であった。
皮膚が燃え上がることに苦しんでいたホブゴブリンは、より強い力を持った炎の蛇によって一瞬で燃えかすとなっていた。
「な、何事だ!?」
外の見張りとおぼしきホブゴブリンが二名やって来たが、まるで火を吹く山のふところに飛び込んだかのような光景に唖然としていた。
ポーリンが、炎の蛇を従えて、ゆっくりと牢を出る。
ホブゴブリンたちは、腰を抜かしたかのように一歩下がったところで動けなくなってしまった。
「ま・・・魔女だ」
「逃げるなら命までは取らない、ホブゴブリンよ」
そうして、短く別の呪文を唱えて、チーグたちの牢を解錠した。
チーグは目を輝かせながら、デュラモは驚きに目を見張りながら、そしてノトは畏怖の念に打たれながら、ポーリンのとなりに並んだ。
「魔女だぁ!」
ホブゴブリンたちが叫びながら逃げ出す。
逃げるホブゴブリンの背に、チーグが威勢の良い声をあびせた。
「お前らを丸焼きにしてワニのエサにしてしまう、世にも恐ろしい、<烈火の魔女>だぞ、覚えておけホブども!」
ポーリンは、逃げゆくホブゴブリンの背を見つめてから、彼女の付き従うかのような炎の蛇を消した。そして、少し余裕が戻ってきた表情でいたずらっぽくチーグを見つめた。
「烈火の魔女?」
「ああ、おまえの気性も、炎を操る姿もぴったりだ」
「なるほど」
彼女は緩やかな笑みを浮かべた。
「・・・悪くないかも知れないわね」
そうして、ついさっきまで縛られていた手首についたあざをなでた。
「しかし、緊急脱出用の呪文の訓練が役に立つときがくるとは、思わなかった」
そのささやきは、サントエルマの森で修行をしていた過去の自分への褒め言葉でもあった。
(つづき)
(はじめから読む)