何者でもない者たちの物語:烈火の魔女と本読むゴブリン#10
#10.魔獣との戦い
死をもたらす息を吐きながら、悠然と丘の上から降りてきたヘルハウンドの背の上で、隻眼の赤いマントの男が口を開いた。
「ゴブリン王子チーグ殿下の一行とお見受けする。黙って捕まってくれれば、手間が省けるのだが、いかがだろうか?」
低く渋い声だが、あきれるような尊大な申し出だった。
チーグは馬車の中から這い出ると、器用に車を引く馬の背の上に立った。
「それよりも、いい提案がある。俺たちの側につけば、雇い主の三倍の金を払うが、どうだ?」
チーグは伺うように言う。こういうときは、ゴブリンならではのいやらしい薄笑いがその言葉に説得力を持たせるのだった。
「・・・魅力的な申し出だ」
赤いマントの男は、とぼけたような口調でそうつぶやいた。
「だが、正直なところ、聞き飽きたよ。仕事柄、そういった申し出はしょっちゅう受けるからな」
そう言って、双頭の犬の首元を撫でた。ヘルハウンドが危険なうなり声を上げる。
「そして、そういった申し出を受けないことが、この仕事を長く続ける秘訣だ」
右目を塞ぐ眼帯に記された四つの目の模様は、彼の相棒の双頭の犬の目だ。
リノンの冒険者組合で見たときは分からなかったが、ポーリンは今にしてその意味を理解した。あれは、赤いマントの男とヘルハウンドの絆の証だ。
「ああ、そうかい」
チーグは残念そうにため息をついた。
「・・・それじゃ、おたくの名前を聞いておこうか?」
「この仕事について以来、本名は名乗らぬことにしている。同業者には<四ツ目>と呼ばれている」
「そりゃ、けっこう」
そうして、チーグはポーリンに目で合図した。ポーリンはため息をついた。危険な敵だが、一戦交えるより他の道はなさそうだ。
「かかれ!」
チーグが威勢良く声を上げる。
双頭のハンマーへの祈りを終えたノタックが、解き放たれたようにヘルハウンドに襲いかかった。
その祈りは、ノタックにとっては単なる習慣なのかも知れないが、それが魔法のハンマーの威力を引き上げるための儀式になっていることに、ポーリンは気づいていた。
重い鎧を着ているとは思えぬ俊敏さでドワーフは駆け寄り、鉄槌を振り下ろした ―――大地が割れるかのような衝撃が周囲に拡散したが、ヘルハウンドはすでにその場にはいなかった。わずかに身をそらし、素早くドワーフの右側に回り込む。
ノタックは、ハンマーの重さを感じさせぬ動きで追撃の第二撃を繰り出したが、それより先に魔獣の頭突きが炸裂した。金属がへこむかのような鈍い音を立てながら、ドワーフは吹き飛ばされた。
回復させる暇を与えず、ヘルハウンドはドワーフに飛びかかろうとしたが、押し寄せる睡魔に一瞬動きが止まった・・・が、すぐに覚醒する。獰猛な牙がドワーフをひと噛みしようと襲いかかる。
しかし、ノタックにとってその一瞬は貴重な時間であった。痛みと頭がくらくらする感覚に悩まされながらも数歩身を引き、再び戦いの構えをとった。
思うような攻撃ができなかったヘルハウンドは、濁った黄色い目に怒りをたたえながら、ポーリンの方を向いた。
ポーリンも馬を降り、魔法での戦いに備えていた。しかし、眠りの呪文は、ほぼ無効だった。
予期していたことではあるが、改めて事実を目の当たりにすると、手が震える思いだった。
双頭のヘルハウンドは、怒れるトロールよりもずっと格上である。それを従えている<四ツ目>も、同様に熟練の戦士だろう。
ここには、いざとなったときに守ってくれる師はいない。彼女より高位の魔法使いもいない。護衛もいない。そればかりか、彼女がゴブリンの王子を守らなければならない立場なのだ。
ヘルハウンドの四つの目が、彼女をとらえる。
恐怖が降り積もる豪雪のように彼女にのしかかった。これは、墓場や暗闇で感じる恐怖ではない。大雪原で、寒さに震えながら行く方向も分からずさまよう者の恐怖だ。身体がこわばり、思うように動かない。
彼女は生まれて初めて、強烈な孤独を感じていた。
ここで頼りになるのは、自らの力のみ。けれども、その力は彼女を生き延びさせるために、十分なものだろうか?雇い主を守り切るのに、十分なものだろうか?
口の中にしょっぱいものを感じていた。
―――しっかりしなさい!
内なる声が、彼女の震えた身体をむち打つ。まっすぐで、負けん気の強い、母ゆずりの気質・・・
―――負けてなるものですか。
その思いは、凍り付いた勇気に明かりを灯す程度には、役に立った。
深呼吸をして、魔法の力をたぐり寄せようとする。失敗すれば、恐らく死・・・
彼女は覚悟を決め、目を閉じて精神集中に入った。くさってもサントエルマの森で学びし魔法使い。並の術者であれば長い時間がかかる詠唱を、滑らかに素早く終わらせる。
右手を前方に突き出し、掌をかかげたその先に、まばゆい火の玉があらわれ、轟きとともに魔獣へ襲いかかる。
―――成功した。
と思った刹那、魔獣の口から同じような火球が吐き出され、ポーリンの火球とぶつかって激しく爆発した。
轟音と強い熱があたりにまき散らされる。
唖然として立ち尽くすポーリンの目の前の、炎の壁をつきやぶってヘルハウンドが襲いかかってきた。
とっさに呪文を返す余裕などなく、ただ致命傷を回避するためだけに身を低くしようとするのが精一杯だった。
「駄目だ」
情けなくも小さくそう口走った矢先、横から飛び出てきたノタックのハンマーがヘルハウンドの脇腹を殴った。
(つづき)
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