バンザイ 君に会えてよかった
入学した中学校での初めての全校集会、礼拝に使う古いチャペルに足を踏み入れると大きな歓声と拍手に包まれた。
そこに、流行っていたウルフルズの「バンザイ」が大音量で流れ始めた。
元々男子校だった私立の中学と高校が中高一貫になり同時に共学になった最初の年に、わたしは入学生として迎え入れられた。
女子というだけで、おそらくこの世に生まれてきたときと同じくらい歓迎されたのではないかと思う。
入学しただけでまだ何もしていない。
ただそこにいるだけで歓迎された。
約80人の女子に向けられた「バンザイ!」を、自分に向けられたものだと、めでたくも勘違いしたのだから自己肯定感は爆上がりである。
「自分は歓迎される存在なんだ」という能天気な認識が、そのとき強烈に刷り込まれた。
20代の終わり、転職して入ったコーチングの会社に初出社したとき、案内された席には「草さん Welcome!」と書かれた、いろいろなお菓子の入った大きな袋が置かれていた
同期入社の同僚からその後誕生日にもらったメッセージに「オフィスに入ると、向かいに同じようにお菓子を前にニコニコ笑っている草ちゃんがいた」というようなことが書かれていたので、よっぽど満面の笑みで座っていたのだろう。
何をしたわけでもない。
何かを持っているわけでもない。
ただそこにいることを歓迎されている。
そんな認識がさらに強化されたに違いない。
そんな風に「自分の存在そのものが歓迎されている」「存在そのものが大切なのだ」と思ってきたわたしだが、そう思えなくなったときもある。
大学の4年目、所属した研究室で教授とソリが合わず大学に行かなくなった。
当時はまだ今みたいにオンラインで何でもできるような時代ではなかったので、隣の駅にある貸し漫画やさんと家の往復をするだけの毎日だった。
このままではダメだと思いながら、漫画を読む以外に何もする気にならない。そんな自分をますますダメだと思った。
そんなある日、同級生がランチに誘ってくれて久しぶりに大学のキャンパスの近くまで行った。
パスタだったか、カレーだったかを食べながら、がんばることができない自分なんてダメだと思っているという気持ちをぽつりぽつりと話した。
そうしたら友人が涙を流して言った。
「わたしは草ちゃんががんばっているから好きなわけじゃないよ」
頭を殴られたような衝撃だった。
自分の存在そのものを自分で認めていたはずが、気づけば何かをしている自分だから人に認められるし、何かをしているから自分でも自分を認めることができると思い込んでいたことに気づき、「何かをしていてもそうでなくても、何かができていてもそうでなくても、自分はいるだけでいいんだ」と思えた。
そのとき全身を震わせながら想いを伝えてくれた友人に今でも感謝している。
自分に対する他者の反応でわたしたちは「自己認識」をつくる。
無条件に受け入れられれば、自分は無条件に受け入れられる存在なのだと思うし、条件付きで受け入れられれば自分はその条件があるから受け入れられていると思う。
自己認識をもとに現実が認識され、記憶がつくられる。
無条件に受け入れられると思っていたら、そんな体験ばかりを覚えているし、条件があるから受け入れられると思っていたら、そんな体験ばかりを覚えている。
そして記憶がまた自己認識を強化する。
実際にはわたしたちはいろいろな経験をしている。
無条件に受け入れられることもあるし、条件付きで受け入れられることもある。
自己認識は強固なフィルターだけど、選択し直すこともできる。
よくよく思い出してみよう。
「確かにほとんどそうだったかもしれないけど、そうじゃないときもなかっただろうか」と。
そうしたら、見落としていた「現実」が見えてくるはずだ。
あなたの関わりも、誰かが「現実」をアップデートする後押しになる。
「あなたに会えてよかった」
「あなたを大切におもっているよ」
そう伝えるのは、言葉だけではない。
だまってただ隣にいる。
いろいろな声や言葉に、存在そのものに、静かに耳を傾ける。
そうしてともにあることが、誰かが自分をそのままに生きる後押しになる。
『バンザイ』を知っている方も知らない方もどうぞ♪