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一昨日からピーターさんの友達が我が家に滞在している。

「友達」と言ってもこれまで会ったことはなく、彼女が日本にあるオランダ大使館で働いていたということでインスタ上で知り合い、今回日本滞在の際に泊まっていくことになったという、なんとも現代的かつオランダ的?(ピーターさん的?)なつながりだ。

この夏はオランダで少し前に購入した家の庭にガーデンハウスを自分たちで建てたと言う。

前のオーナーがいろいろな植物を植えていたみたいで、わたしたちも庭の手入れをしていくのだと話す彼女はとてもうれしそうだった。


ちょうど数日前にピーターさんに、「家のリノベーションが終わって時間ができたら毎日何に時間をかけたい?」と聞いたら「クッキングとガーデニング」という答えが返ってきた。

ピーターさんもやはりうれしそうだった。


オランダで住んでいた家のオーナーのヤンさんも庭仕事が好きだった。

わたしの部屋は2階にあったが、1階に住むヤンさんが庭に出ている姿をよく見かけたし、二度目の春に「この時期に庭に咲く白い花が好きだ」と言ったらとてもうれしそうな顔をしていた。

庭とは「あわい(あいだ)」の場所だ。

「わたしの庭」ではあるのだけれど、近所に住まう人にとって景色という彩りの一部である。

庭の手入れをするという自分にとっての楽しみが、誰かの微笑みややすらぎになっていくこともある。


向かいの家のおばあちゃんは庭にも生垣にもたくさんの花を植えている。

自分のところがいっぱいになっているからか、我が家にもよく「これ植えとき」と引っこ抜いた花を持ってきてくれる。何なら我が家の庭に勝手に植えておいてくれる。

今我が家の庭には去年おばあちゃんが持ってきてくれた花があちこちに咲いている。

我が家の庭が華やかになると、おばあちゃんの家から見える景色も華やかになる。

とすると、おばあちゃんは、誰のために我が家の庭に花を植えるのだろう。
自分のためだろうか。わたしたちのためだろうか。

そこには「わたし」と「あなた」の明確な境界は存在しない。

存在しないというか、「誰のため」ということはきっと重要ではないのだろう。

庭仕事の先に何かがあるわけではない。
何かのために庭仕事をするわけではない。

庭仕事そのものによろこびや楽しみがあるのだ。

もちろん、大変なこともあるけれど、それも含めて味わいなのだろう。



「新しい花が咲いているよ!」

とピーターさんは庭につくった小さな池を覗き込んで声をあげる。


庭を いつくしむということは、
今日を いつくしむということであり、
今ここにあるものを いつくしむということであり、
そこにある美しさを分かち合って生きることなのだと、

庭に生きる植物のひとつひとつをうれしそうに見つめる人たちから学んでいる。


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awai Sou / 佐藤 草 自然(わたし)にかえろう🌿ともにいのちを生きる
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