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あわいにダンス〈アフターシリーズ①〉【対談】建築社会学 松村淳さん×小松菜々子

『あわいにダンス』のクリエーションのなかで、社会学の松村淳さんにお話を聞かせていただく機会がありました。ここでの対話をきっかけに、今公演のコンセプトが大いに前進しました。試行錯誤のリハーサルが続く中、公演の輪郭が徐々に立ち上がってきた1月30日に、再び対談の場を設けました。
今対談は、〈アフターシリーズ〉としてお届けします。終演後の余韻のお楽しみに、また、公演をご覧になっていない方にも『あわいにダンス』の一片に触れていただけるような対談となりました。どうぞ!

「劇場」で観客の身体をほぐすこと

───まずは小松さんの方から、今回どのような公演にしようと思っているのか教えてください。

小松:まず昨年11月に松村先生とお話させていただいたことが、今回の作品の始まりだったとも言えるぐらい重要な機会だったなと思っています。
松村先生からいただいた言葉でいくつかメモしていたものがあって、1つは「見る側の姿勢を崩す」という言葉です。私はこの作品のために8月頃から動いてはいたんですが、改めて何を軸に作品を作っていくかという話を劇場側としたときに、唯一自分のなかで決めていたのが「客席を作りたくない」ということでした。それが社会的に見て一体何を意味するのかということを、松村先生とお話しして言語化していただいたと思っています。

私が振付家もしくはダンサーとして、何をダンスだと思っているのか、何に興味を持っているのかと考えたときに、信号待ちしている人や駅で整列して並んでいる人のことがまず浮かびました。私は海辺に住んでいるんですが、毎朝同じ時間に決まって体操をしに来るおじいさんがいて、その姿はまるで振り付けられているようにも見える。とてもダンスだなと感じます。では劇場というものがどのように人を振り付けているのかと考えたときに、客席に座ること自体がある意味で振付であり、その振付を解体してみたいと思いました。ダンサーが何をするかということ以上に、まずは観客がどのように振付から解かれていくか、その解かれることをどう振り付けするか。こういった考えが、11月の対談のおかげで形になったように感じました。

街から締め出される身体

小松:もうひとつ、11月のときに松村先生から「身体が街からロックダウンされている」というお話があって。あれ以来、街を見るときに私のなかに新しい視点が加わりました。ここにはなんだか居づらいな、ここにはいてもオッケーだな、という視点で街を見直すようになったんです。そういう目で新長田のことも見返してみようと思ったことが、今回の作品で劇場の外も使うことになったきっかけでした。松村先生がおっしゃっていたように、街は何かを消費するために作られているということも、商店街を歩きながら思い起こしました。ただ、私たちの劇場がある新長田の商店街の先には、住宅地があるんです。そこには阪神淡路大震災のときに倒壊しなかった大正時代からある家屋などが残っています。そういう場所ではなぜか、「いま自分はここにいていいのか」ということをあまり意識しないなと気がついたのです。マンションや商店街と、大正時代から残っている古い家屋との差異が新長田にはあって、そんな街と自分たちとの関係性について考えて、改めて面白い場所だなと気づかされました。

小松:それと面白いと思っているのが、大正時代からある古い家々は今の家みたいにきちんと境界線があるわけではなくて、家同士がまるで陣地争いをしているようだったり、どこまでが道でどこまでがその人の家なのかがわからないくらい、植木鉢がいっぱい置いてあったりとか、面白い場所がたくさんあります。その街並みからふと振り返ってみると、震災後にできた新興住宅のマンションがお城みたいに見えるんです。そのそびえ立つお城を、100年ぐらいそこに建っている大正時代の家の隙間から見ているとSFみたいな感覚になって、なんだか本当に変な街だなって。

松村:ちょうど今書いている本には長田のことも結構書いていて、この間は角野史和さんのところへ取材に行かせてもらいました。角野さんが作っている貸し農園(「おさんぽ畑」)の工夫の仕方を色々と聞いていて、面白いなと思ったのは、マンションに住んでいる人と、昔の大正長屋に住んでいる人の間の距離みたいなものがどうしてもあるんだということでした。マンションの方を引きずり出す感じでコミュニティに連れてくることはもう不可能に近いと角野さんはおっしゃって、そんな人でも気軽に来られるように、貸し農園という形で上手に空間化されているんですよね。貸し農園から新長田の方を見ると、本当に小松さんがおっしゃったようなSF漫画に描かれるような風景が広がっていて、シュールだなと思いました。もうあの風景は東京とかには多分残ってないけれど、長田では都市の中に下町がある風景が残っている。
僕は、至る所で身体がロックダウンされていると思うのです。たとえば、夜の学校とか、昔はグランドに入ってサッカーとか出来ていましたが、今は完全に不法侵入になってしまう。昔はグレーのまま置かれていたことが、今は白か黒かだけになって、みんな黒にそまりたくはないから、余計なことはしないようになってしまいましたよね。でも、長田ってまだ街から人がロックダウンされていない場所だなと思っています。

人々の営みのひとつとしての「劇場」

松村:あと小松さんがおっしゃったことで面白いなと思ったのは、人々の日々のルーティーン自体が、誰に振り付けられることもないダンス的なものなのではないかというところですね。実はすでにそうしたダンス的なことをしているのに、みんななぜか目の前の舞台で起こっていることだけが正しい芸術で、僕らが日頃無意識にやっていることは芸術に値しないことだと思っていますよね。芸術はありがたく鑑賞させていただくものだというような、目に見えない障壁が劇場や美術館にはいまだにあるような気がしています。それは芸術家の方が悪いという話では全くないんですが、見る側はそういうふうに自らを規制しているような気がする。だからこそ小松さんは下町を選ばれているんだなと思っています。下町って、人々の身体の所作が自由ですよね。長田って人々が本当にくつろいだかたちで、自分がしたい格好でしたい動きがまだできている場所だと思います。そういう場所にダンスボックスがあるのはとても意味があることだなと思っています。
そこでさらに小松さんが振り付けを崩していく、まずは観客を解していくところから始めようとされているのは、本当にその通りで、とてもいいなと思います。どちらかというと演者さんよりも、観客の方がカチコチになっているのではないでしょうか。「芸術」って興味があるだけですごい!みたいな。まだまだ、どちらかといえば好奇の目で見られるじゃないですか。その辺りを今回の作品で小松さんが崩されていく。舞台を鑑賞した後、観客の方の意識や態度が変容して帰っていくんじゃないかなと思っています。

───そうなればいいですよね。小松さん、その「観客から振り付けを解いていく」ということについて、今回劇場のなかでどんなことが起こるのかということもふまえて、もう少し話していただけますか?

小松:劇場の中ではもちろんダンサーもいて、テクニカルスタッフも入っているので、日常っぽくはないと思います。だけどいわゆる舞台上で行われている作品を見るのとは違うかたちで、何を見せられるんだろうと思ったときに、やっぱり私たち舞台を作る側が普段やっていることも、ある意味では日常であると考えました。たとえばダンサーがダンスを踊ることや、テクニカルの人たちが劇場で仕事をしていること、ダンスボックスのスタッフが劇場ロビーでパソコン仕事をしていること。そういうことも、街の中のいろんなほぐされた体のひとつとして存在している。ダンサーが作品を遂行していることすらも、街の中の豊かさのひとつに含められたらいいなと思っています。鳥みたいな目線で街と劇場を見るように、この劇場という場所と作品が関係性を持てたらいいなと。そういう感覚でツアーをしていけたらいいなと思って作っています。

松村:長田の下町の中にシアターがあるという立地の特殊性も十分に活かして、下町からシームレスに入っていけるように劇場があればいいですよね。ダンスボックスには2 回ぐらい行かせてもらいましたが、とてもウェルカムな雰囲気を感じたので、それが加速されていくのであれば素晴らしいんじゃないかなと思いました。

小松:11月に松村さんから歩道のお話を聞いたので、ジェイン・ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会、新版 2010)という本を私も少しだけ読ませていただきました。歩道の豊かさが街にとって大事だという話があって、そういう視点で劇場がどうあるべきかと考えたときに、特定の人たちのみが使う場所であるとやっぱり人が来なくなってしまうし、それが結局は犯罪率とかにつながってしまうという話もあって、すごく面白くて。ダンスボックスってかなりダンスに特化した場所ではあるんですが、実はダンスを全然見ない人も沢山来るところなんです。昨日も、いろんな国から新長田に移ってこられた方々が劇場にやって来て家族写真を撮るという企画の撮影会がありました。他にも、新長田の30代、40代の人たちを取り込んでダンス部を作っていて(「新長田アートマフィア」ダンス部)、その練習に合わせてご家族が来たり、子供の面倒を見るためにご近所の方が来たりもするんです。そうすると劇場という場所に初めて来た人とか、踊ったことはないけど頻繁に来ている人もいたりして。歩道の豊かさの話を聞いてダンスボックスを見返したときに、ここがそういう劇場なんだということを前提にしてこそ私はこの作品を作ることになったんだなと思いました。

誰もが豊かに使える場所  〜「コモンズ」の創出

───今回、小松さんがダンスを他者とどう共有するかというときに、いわゆるダンスのメソッドを使わずしても共有できる道があるんじゃないか、と探っているのではないかと思っています。小松さんから見た「日常の行為のなかのダンス的な瞬間」を一緒に立ち会って共有できるような、「共有地」を作ろうとしているのではないかと。
松村先生は「コモンズ(共有地)」の研究を進めているとおっしゃっていましたが、その概念がまだ我々の中にあまり馴染みがないようにも感じていて、ぜひ松村先生の言葉で教えていただけないでしょうか。

松村:コモンズという言葉は、確かに日本語になっているような、なっていないような感じですよね。たとえば昔の農村の「入会地」みたいなイメージです。雑木林とかため池とか川とか、みんなで管理してみんなで少しずつ恵みを分けてもらうような土地のことを入会地というんですが、日本にはそれが長らくありました。社会学というのは社会秩序がいかに成り立つのかを研究する学問なので、コモンズとしての入会地も社会学の研究対象に入ってきます。入会地は古典的なコモンズなんですが、最近だと、コモンズ研究にはネット空間上の知財も含まれています。Wikipediaもコモンズの一つですね。

そんななかで僕が研究しているコモンズは、都市空間の中におけるコモンズです。老若男女、誰でも気軽に集える場所って、都市の中で実はほとんどないということが言われているんです。お金を払って顧客や利用者にならなければその場所に入れないということが多いですよね。
誰もが豊かに使える場所はないのかということで、神戸市職員の渡辺さんたちと研究させていただいているのは、銭湯を一つのコモンズとして使えないかということです。僕はみんな家の中に閉じこもりすぎだと思っているんです。マンションにもなると完全にシャットダウンして、他人を寄せ付けないようになりますよね。全然アクティビティが外に滲み出ていかない。だから今度出版する本では風呂をやめませんか、とか書きたいんですけど。家の風呂を使わずに銭湯に行こうよとか、シェアキッチンを外に作ってみんなで外で食べようとか。家の中の機能を外にどんどん放り出していけばいいと思っていて、そういう場所のことをコモンズと呼んでいます。

───なるほど。私は「コモンズ」の捉え方を間違えていたかもしれないです。

松村:外に開いている場所はコモンズと言っていいのかなと思っています。新長田にもいくつかありますよね。誰でもウェルカムな感じで、地域の人たちに開いてますよというポーズを見せてくれる場所が増えることが、コモンズなんじゃないかと僕は思っています。でもまだまだこれがコモンズだと言えるところまではいってないので、今はコモンズ的なものを集めているような状況ですね。

───じゃあ今回の公演で、これもコモンズなんじゃないかというのを沢山提示できたら面白いですね。小松さんが今回やろうとしているダンスやツアーの方法自体も、コモンズとして開いていけるかもしれない。

小松:実は今回、私がメインで作品をディレクションできたかというとそうではなくて、ツアーコンダクターの人たちやdBスタッフの方、テクニカルスタッフの方、ダンサーも含めて、私がふわっとした方向性を示した先で、みんなが「じゃあこれはどうかな」って提案してくれて進んでいったんです。私はただ生態系を見ているだけの役割で、手入れすることもそんなにできていないなか、それぞれが自生するようにして作品ができていったと思っています。頼りない発言になっちゃうんですけど、でもコモンズの話ってもしかしてこういうことでもあるのかなと考えながらお話を聞いていました。緩やかなつながりの中でみんなが好きなように自分のエゴを貫いていて、それが私にとってはみんなにやってもらいたいことの1つでもありました。もちろん私のエゴも沢山聞いてもらっていて、そうしたエゴとエゴの絡まり合いみたいなものが、作品の今の形につながったように思います。

松村:とても重要なことをおっしゃっていると思います。みんながその場を支えるのがコモンズだと思うんですよ。なので、全員が当事者意識を持っていないといけない。日本の伝統的なお祭りもコモンズだと言われていて、参加者の一人一人がお祭りを支えているという自覚を持ちながら参加していると思うんです。今回の小松さんの作品も多分、みんなが小松さんから役割を与えられたのだと思うんですよね。そうやってたくさんの人を巻き込んで焚き付けられている時点で、コモンズができあがっているんじゃないでしょうか。

小松:ありがとうございます。そうだといいんですけどね。

松村:せっかく神戸にいて僕もちょっとダンスに興味が出てきているので、この機会にいろいろ勉強したいと思っています。

───今日はありがとうございました!今公演の感想を改めてゆっくりとお伺いさせてください。


松村淳(まつむら じゅん)
1973年香川県生まれ
関西学院大学社会学部・京都造形芸術大学通信教育部デザイン科建築デザインコース卒業
関西学院大学大学院社会学研究科博士課程後期課程修了(博士・社会学)
【著作】
『建築家として生きる――職業としての建築家の社会学』晃洋書房
『建築家の解体』筑摩書房
『愛されるコモンズをつくる――街場の建築家の挑戦』晃洋書房
『消費と労働の文化社会学』ナカニシヤ出版(共著)


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