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You Are a Tough Cookie.!

まゆげ、逝く...。 Rest In Peace.

我が家に金魚のまゆげとさしみが来たのは去年の5月のこと。Tough Cookie.のオープンも目処が立ちながらも、なんだか埋めようのない寂しさが押し寄せていた頃。友人に相談すると、

「ペット飼えばいいのに!可愛いわよぉ〜。」

確かに。その手があった。パティシエの勤務時間は長く、繁忙期には休日さえ「いつだったっけ?」という感じになるので、ペット飼育は絶望的だと考えていた。

可愛い大河くん。

最後にペットを買っていたのは10代から20代にかけて。小学校時代に拾った雑種のタヌちゃんと、ゴールデンレトリバーの大河。母がまだ健在だったので、私といえば、その間、留学にも出たし、社会人にもなった。実際に世話ができる時間が途切れ途切れとはいえ、お互いの存在を忘れることなく、数年ぶりでも狂ったように迎えてくれる、無条件に愛情を注ぎ、注がれる関係であった。留学中は(まだインターネットもメールもない時代)、高額ゆえ10分もつないでいると焦る国際電話越しに、ひたすら「大河!大河!」と叫び、「ワオン!」と吠えてくれると泣けた。社会人になり、疲れ切って帰宅すると夜中なのに飛びついてきて、いいおじさんなのにチビる大河は可愛くて仕方なかった。しかし、大きさが大きさ故、老いて病気になり、逝ってしまうまでの期間のドラマと、失った時の喪失感は半端ではなく、あの想いをもう一度経験することに躊躇していた。

ペットの条件

今の生活に合うペットの条件とは?時間帯はフレキシブルだし、拘束されないけれどずっと一緒にいることも無理、予定通りに行かないことも多い。あとは飲食業なので、「毛」の類は無理。自由に動き回る「毛」の類としてはイヌ、ネコ。ウサギならばどうだろうと考えたが、アシスタント・ソヨン(初登場)の「亜矢子さん、ウサギはう◯こ、一日300粒以上ですよ、大丈夫ですか?」で即却下。結局、「毛」の類は条件の面でまず、無理。もちろん一人暮らしで、フルタイム勤務でもペットを飼っている人はたくさんいる。私が長年躊躇し続けた最大の理由は「喪失感」である。日本人女性の平均寿命を考えると、私は折り返し地点にいる。つまり、ペットより長生きする可能性が高い。毎日、無条件に愛を注いだ対象が、ある日突然いなくなる。果たして耐えられるのだろうか?存在感は大きさと重さに比例するのだろうか?小さくなれば、失った時の悲しみも小さく短くなるのだろうか?

2匹の金魚

小さいこと、呼吸をすること(ハートがあること)、人に反応すること、可愛いらしいこと、懐くこと、いかにも身勝手な理由で、まゆげとさしみが我が家にやってきた。水槽を買い、水を入れ、水草を入れ、2匹の金魚をドボン。金魚とはなんと愛くるしいのか。オレンジがかったキラキラしたボディーは縁起の良さしか感じない。

そんな感じも1週間で終わった。

まだ小さい二人は目まぐるしく変わる環境なのか、飼い主が構いすぎるのか、病気になっては治り、水槽から飛び出しては九死に一生を得る毎日を繰り返した。イヌとかネコとか、病院に連れて行ける動物と違い、何がおかしいのか全くわからないまま、Google先生やAmazon薬局から情報を集めたり、ありとあらゆる種類の餌と薬を取り寄せる毎日だった。毎朝二匹の金魚の生存確認から始まる毎日。

新しい生活

まゆげとさしみが来てから、新しい習慣がいろいろ増えた。餌をやったり、水槽を掃除したり、定期的に塩浴スパをさせたり、好きな音楽を聞かせたり、毎朝健康状態をチェックしたり。24時間旺盛な食欲でアイスクリームコーンやクッキーをご褒美に食べたり、ナチョスを食べてお腹を壊すグルメ金魚だった。同じ金魚でもまゆげとさしみは性格が全く異なる。まゆげはとても人懐こくて、さしみはクール。でも夜中に仕事をする私をじーっと見つめ、反応をいつまでも待っているのはさしみ。さしみの熱い視線に「はっ」となり餌をあげる。こちらがかまって欲しい時に絶対答えてくれるのがまゆげ。いつも尾鰭をフリフリして寄ってくる。性格の違う二人はとっても仲良しで、水槽から飛び出して、半身の鱗を失い、瀕死の状態で戻ってきたさしみはまゆげの献身的な“つつき”によって息を吹き返した。(さしみの名前はそこからついた)その後もさしみが夜になって飛び跳ねる時間になると、それを体当たりで止めていた。一年が経ち、あれほど病気を繰り返した二匹も、水質も、安定をみせ、こちらもちょっとの不調ぐらいでは全く慌てないようになっていた。

まゆげ、逝く...

それは先週のことだった。ある朝、まゆげのお腹にコブのようなものができているのを見つけた。でも元気いっぱいに泳いでいる。ちょっと前から気になっていたのは、まゆげはさしみよりちょっとビックサイズで餌を食べるのがうまい。さしみはいつも遅れをとり、まゆげが食べ終わるのを待つ。まゆげは食べ過ぎるせいか、午後になるとプカーと浮かんで昼寝をする。さしみは底の方に沈んで眠る。フンの状態もさしみに比べると良くないことが多い。最初に大怪我をしたのはさしみだが、まゆげは小さい不調が多い子だった。どうしてもそのコブが気になりいろいろ調べても原因不明。ちょっと前に、珍しく小さなさしみが、温和なまゆげを追い回しているのが気になったくらい。いろんな情報をまとめて、まゆげご懐妊!と内臓疾患の2つの線に絞り、薬浴とお腹のマッサージを試みた。ちょっと腫れが治ったように見えたのだが、明け方にまゆげが泳ぐ金魚鉢の底にどろっとした血の混ざった粘液を見たときは、あ、無理だな。と思った。そこからは速かった。底にしずみ、じっとしたまま動かず。でも時折りびっくりしたように激しく泳ぎ、また沈む。

存在の耐えられない軽さ

まゆげ〜!頑張れ!あれだけ大丈夫だと覚悟して臨んだ約5cmの命が目の前で途絶えようとしている。涙が止まらかった。ほどんど毎日一緒に過ごして、話しかけて、考え事は水槽の前。「餌くれ!」と踊り狂う可愛いまゆげとちょっと後ろで微妙に揺れるさしみを眺めていると30分はあっという間。まゆげは最後にすごい闘志を見せた。悲しむこちらをよそに、金魚らしく、もう、いいよって思うくらい生きた。ああ。生き物の本能って「生きよう」ってすることなんだな、と思った。諦めるとか、頑張るとか、そういうことは一切関係なくとにかく、選択肢にもなくとにかく。心臓が止まるまで生きる。死んじゃったのかな?と思うとぴょんと飛び跳ねることを陣痛の逆バージョンでだんだん間隔を伸ばしながら2時間くらい繰り返しながら最後は金魚鉢の底でちょっとだけ痙攣して全く動かなくなった。「あ、逝ったな。」って感じ。私たちは意思ではなく、生かされてるんだな、ってまざまざと見せつけて逝ってしまった。

まだまゆげが元気だった頃、疲れと悩みの中、水槽を眺めながら思ったことがある。「君たちは、飼い主の心配をよそに、毎日よく食べ、よく泳ぎ、欠伸して、よく寝て、気楽でいいよな」と。

普通に考えると人間の一生は金魚のそれより長い。毎日よく食べ、よく泳ぎ、欠伸して、よく寝て生きるだけでは長すぎる。そこに責任とか、使命とか、感情のような「重さ」を加えないと、その軽さに耐えられないのではないだろうか。みんながみんな小原庄助さんみたいにはなれないでしょ。美食家で、大の温泉好きで、愛されキャラ。憧れるけど、大人になってもそうはしていられない。あんまり変なこと考えないで、こじらせないで生きるって、難しい。

ワンちゃんやネコちゃんは、金魚と比べて、サイズではなくエモーショナルなレベルでコミュニケーションできるから「重い」のだ。芸を仕込まれたり、朝飼い主を起こして散歩を促すなどしてしまうとさらに重さは重なり、そこに絆が生まれてしまう。忠犬ハチ公は犬界においてはヘビー級に重い。渋谷に銅像が建ってからは永劫回帰に閉じ込められ年々重さをますばかり。まゆげは、あくまで観賞用という金魚の域をこえ、勝手に向けられた重さに耐えきれなくなったのではないだろうか。だから最後に「違うよ!金魚だよ!軽いんだよ!生きている間だけ眺めて楽しんでくれればいいんだよ!」の意味を込めて、豪快に逝ってしまった気がする。

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まゆげには、「可燃で出すか、トイレに流してね」と言われている気がするが、大変厳かな「まゆげを送る会」を2日にわたり仕切ってしまった。博多の名店「みかん」の明太子の木箱に収まるまゆげ。傳の長谷川シェフにいただいたガリガリ君ウメ味の棒にセレブ金魚ゆえキラキラのラインストーンをビッシリ飾った塔婆。都内でもプライムロケーション、墓地としてのブランド力も群を抜いている青山霊園に埋葬しようと思ったが、そこまでの重さを背負わされても迷惑だろうな、と思い留まり、考え中。いまだ我が家の冷凍庫に眠っているが、誰かが明太子と間違えて解凍する前に、さっと手放してあげるのが一番良いのだろう。

金魚の集中力・記憶力は8秒。じっと見ているように見えるさしみは、きっとまゆげがいた生活を覚えていない。ここに友を失い悲しむさしみを見てしまうのは、人間の重さゆえ。

「あのさー、今の量の半分くらいで考えて、軽く生きなよー。重いんだよ、あなた。」のメッセージを残してまゆげは颯爽と逝きました。





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