「何者か」にならなくてもいい理由
はじめに
あなたは「何者かになりたい」と思ったことはありますか?
この記事では、その気持ちを受け止めて、
冷静に振り返えられる機会を提供したいと思います。
ポジティブ・ケイパビリティ
先日、「名前のつかない」概念には名前を付けて、
扱いやすくしようというnoteを書きました。
これは「ポジティブ・ケイパビリティ」という考え方です。
わからない概念について、言語化を試みることで、
それを扱いやすくなったり、理解が深まったり、
他者に伝えやすくなったりします。
一方のネガティブ・ケイパビリティ
noteを書いたことで、
「モヤモヤはモヤモヤのままにしておくのもいいのでは」という
コメントをいただきました。
これは、熟成を待つ「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方です。
ポジティブ・ケイパビリティとは異なり、
あいまいなものを時間をかけて整理されるまで待つことも多く、
忍耐を必要とします。
しかし、そこから生まれるものは深みがあり、
人生にとって非常に貴重なものとなることが多いです。
「ポジティブ」と「ネガティブ」という言葉はついているものの、
どちらが良いということはありません。
どちらも「何かの概念」を捉えようとする試みであり、
状況に応じて適した状況が異なるのです。
「何者かになりたい」という気持ちの扱い方
「何者かになりたい」という気持ちに向き合うには、
ネガティブ・ケイパビリティが適しているかもしれません。
「何者か」という明確な言葉を単純に求めるのではなく、
その背景にある自身の不満や劣等感、過去の経験、
「見合うだけのものが欲しい。取り戻したい」という気持ち。
これらの複雑に絡み合った感情を少しずつ解きほぐしていくことで、
望んでいた満足感や充足感が生まれ、
欲していた「何者か」とは違う、多様な道が見えてくるかもしれません。
「特別な自分」は失敗の多い道
しかし、「特別な人になって、自分を証明したい」という
気持ちを抱く方は多いでしょう。
家族の一員であったり、地域に住んでいる一員であったり。
イチゴが好きであったり、
勉強やスポーツが好きだったり嫌いだったり。
そういう、「普通」のアイデンティティでは満足できず、
「特別な自分に見合う特別な何者かでありたい」と
強く願うかもしれません。
ですが、この試みが失敗しやすい理由はいくつもあります。
「人に認められる」という特別さはコントロールできません。
言葉にしやすい「特別な何者か」は競争が激しく、
交換可能な表面的な個性であることが多いです。「何者か」になれたとしても、そこはゴールではありません。
そこからも、人生は続き、絶え間ない維持と向上のための努力が必要とされます。「何者かになりたい」気持ちは、
セレブや芸能人、一流選手のように「向こうの世界」への羨望です。
羨望を持っている限り、
自分は「こちら側の一般人の世界」の住人でありつづけるという
パラドックスが存在します。
人は皆、誰かの欲望を模倣する
そもそも、「特別な何者かでありたい」という欲求は
どこから生まれたのでしょうか。
なぜ日常を感じる当たり前のアイデンティでは満足できないのでしょうか。
ここで、ネガティブ・ケイパビリティを後押ししてくれる本である、
『欲望の見つけ方』をオススメします。
「人は皆、誰かの欲望を模倣する」というメッセージです。
みんなが欲するから自分も欲しくなったのではないか。
「向こうの世界」のあの人が持っていたから、
マネしてほしくなったのではないか。
それに気づくと、
「何者かになって」得られるものは自分の本心からだ思っていたけれど、
実は無理に欲しがる必要はないのではないか、という気づきが得られます。
アイデンティティの物差しを変える
私自身、病気をしてから、代償として人生に望むようになりました。
「病気が自分のアイデンティティ」のように感じており、
それを打ち消すための「特別な何者か」になろうとしていました。
しかし、ネガティブ・ケイパビリティに従い、
時間をかけて熟成を待った結果、
「何者かである」という安易なアイデンティティを持たないほうが、
うまくいくのではないかという結論にたどり着きました。
「何者かである・何者かではない」という基準を使わないほうが、
選択肢が広がり、より充足した人生を得られると感じたのです。
アイデンティティの「支え杖」
このnoteを書いた大きな動機は、
過去の自分のようにアイデンティティを強く求めている人に対して、
「支え杖」を手渡したいためです。
そのメッセージを書いておきたいと思います。
きっと、現在の自分に「何もない」と思っていたり、
苦しいことが今のアイデンティティになっている人も
いるのではないのではないかと思います。
けれど、それを「自分のアイデンティティ」として、
人に受け入れられることを強く求めると、
人間関係が逆方向に行ってしまうことも起こっているかもしれません。
それマイナスと捉え、苦境が報われるような
別の「特別なアイデンティティ」を
代わりに手に入れようともがいているかもしれません。
まず目の前の苦しみに対して一呼吸おいてください。
「これができれば、人から認められ、自分が認めることができる」という
「条件付き」のアイデンティティを求めていると、
「何者かでありたい」という狭い渇望の世界で生きることになります。
人が思っているほど自分は「わかりやすい何か」に当てはめられません。
有名人ではなくとも、ユニークな人間関係や性格、居場所や行動によって、
それぞれの人は形作られています。
一言では表せません。表せないのなら、
「そのまま熟成を待っていい」と思います。
真に生きる力は、分かりやすさからは生まれません。
肩書などの「人に誇れる明確なアイデンティティ」がもたらすものは、
高いプライドと驕りだけです。
自分の欲は何から来ているのか見極めてください、
人との比較やよくない模倣から生まれた欲はできるだけ手放してください。
そういう欲を手放したとき、
きっと「自分の優先すべき価値観」の下に生きられるはずです。
結果的に、あなたのアイデンティティは
「大切にした自分の価値観」によって、明確に形作られるのです。