Digital Tattoo 消せないことば
この言葉を我が身に感じたのは、このnoteの存在。
誰かに読んでもらいたくて拡散道具としてnoteを始めた訳ではない、また、現在もこの部分は全く変化はない。どこまでも個人的な記録、それはアナログ写真アルバムのようなものだ。後で確認できるように好きな映画の記録を残そう、といった。只、偶然にも誰かの目に触れた時に映画鑑賞前も考えられる為「ネタばれ」は極力避け今から観る人の助けになるようには意識した。旅行記も同様の宣伝等意志がない個人記録だ。
退職した筈の身分だったが、うれしいことに応援要請があり一年間の限定で職場復帰した昨年。同じ業種形態ではあるが若干勤務内容が変化したことや勤務時間がやや生活を圧迫したこともあり、映画はこれまで同様月に5,6本は観ていながらも全くnoteに記録する気力がない、そうした諦めがよぎる中でも時折過去に書いた記事に「スキ」が付く。mailに通知が来る。
「デジタル タトゥー」言い得てると実感した。
私の場合は極力個人情報に触れないよう記していた為、「消すと増える」と云われるストライサンド効果の心配はないがそれでも「過去の記事」が誰かの目に触れていることには責任を感じた。
特に旅行記は、「Dublin2回目訪問」「Maui2回目」のみが完結で他は未完な状態である。それにも拘わらず最近、大好きなアイルランドや他のマガジンに登録してくださった方があり申し訳ない心境。
取り敢えず、リアルタイム映画記録と同時にこの一年間に観た映画記録と共に旅行記加筆を始めた。
この写真は2015年祇園祭で京都へ遊びに行った際に訪ね有斐斎弘道館でお茶をいただいた時の茶器。遊び心満載の古の方が作った茶器。多くの人の手に渡り21世紀にも生きている。でも、もしこれが破損してしまうともう人々の記憶或いはこうしたデジタル記憶媒体の中にしか残らない。触れることはできないのだ。アナログの世界。繋ぎ続けるか消えるか。
元々安直にSNSを使ってはいないが、「スキ」の通知が警告音のようでもあったことがnote復活に繋がった。