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サピオソーシャル、フィクトソーシャル

 いわゆる「フィクトセクシュアル」ほど性的ではなく、「フィクトロマンティック」ほど恋愛的ではない「架空の関係性」志向として、「フィクトセクシュアル」「フィクトロマンティック」並びに「ホモソーシャル」をもじった造語「フィクトソーシャル(fictosocial)」という概念があっても良いではないかと、私は思う。要するに「関係性萌え」の同義語並びに類義語である。私は「サピオセクシュアル」「サピオロマンティック」並びに「ホモソーシャル」をもじった「サピオソーシャル(sapiosocial)」という造語を思いついたが、同時に/同様に「フィクトソーシャル」という概念だってあり得ると思うのだ。
 そもそも、人は何らかの「物語」を好む時点で、すでに「フィクトソーシャル」という性質を持つのだ。たとえノンフィクションの出来事であっても、ありとあらゆる人たちはそれらに対して、それぞれの「物語」を見出し、「キャラクター化」するのだ(例えば、東電OL殺人事件や、首都圏連続不審死事件などが典型例である)。そうでなければ、人は他人のゴシップを娯楽として消費しない。たとえ芸能人などの有名人でなくても、人が他の誰かの存在を話題にする限り「フィクトソーシャル」は成り立つ。
 いわゆる「人」「人間」だけではない。競走馬などの動物を擬人化して、架空の物語を妄想するのは、明らかに「関係性萌え」すなわち「フィクトソーシャル」である。競走馬擬人化作品である『馬なり1ハロン劇場』や『ウマ娘』とは、競走馬を「フィクトソーシャル」的に「味わう」物語である。

 そして「サピオソーシャル」とは「知的な」人間に対する「フィクトソーシャル」的な好奇心である。人は誰かの知性に対して「物語」を見出して楽しむ動物である。それを言うなら、いわゆる「面食い」もまた、他人の顔立ちに対して「物語」を見出して妄想して楽しむ人間関係指向である。さらに、他人の性格や人格に対してとやかく言うのも当然「フィクトソーシャル」である。そして、自分が相手に対して想像する性格・人格が、必ずしも相手自身の性格・人格と一致するとは限らない。
 ズバリ、全ての人間関係は「フィクトソーシャル」である。人は人間関係に対して「物語」を求める生き物なのである。その「フィクトソーシャル」並びに「物語」があればこそ、「人は一人では生きていけない」という言葉は成立するのだ。即物的かつ現実的な理由以外で「他者」の意味を見出すならば、それは「他者」が自分にとって「物語」である可能性があるからだ。それゆえに、自分自身もまた、他者から「物語」を見出される可能性は、当然ある。

 この「フィクトソーシャル」志向の最たる例が、いわゆる「歴史ファン」である。人は過去の有名人たちに対して「物語」を見出す。人が歴史を学ぶ理由には様々な事情があるが、その一つとして「フィクトソーシャル」志向があると、私は思う。そして、人が歴史を好む志向は同時に「サピオソーシャル」でもあるのだ。なぜなら、歴史上の人物とは人間の形をした「書物」であり、教訓になり得る「物語」でもあるからだ。

【サディスティック・ミカ・バンド - タイムマシンにおねがい】


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