エッセイ:寂しさの分析

寂しい。

昼、友人と電話したのに寂しい。

直近に人との交流があったということは、人とのふれあい不足によるものではない。
これはおそらく、自分が自分と居られていない、自分が自分の思いと違う行動をとっていることに由来する寂しさだ。

なんだ。わたしはなにを間違えているんだ。
1日を振り返ってみる。

今日は、芸大の卒展に行こうとしたのだが、身体がどうしてもついてこなくて途中で引き返した。座った姿勢を保つことも難しく、ずっと横になって漫画を読んでRPGをしていた。

RPGは、人生代行だ。プレイしている間、わたしの人生は放置されている。だから、自分の人生を進めてよ、と小さなわたしが泣いている?
うーん、でも、丸一日ゲームしてもそんなふうにならないときだってある。そのときと今回の違いはなんだ?

思い返してみる。今回、わたしは、何をしてもしんどいから、せめて楽しい刺激があるものを…と思ってゲームを手に取った。ゲームが光って見えたからゲームを手に取ったのではなく、消去法で手に取った。

そうか。
わたしは、明確な意思なく、時間潰し目的でゲームをしたことを悲しんでいたのか。
ゲームって、本来とても楽しいもの。心身の自由がきかなくたって、魂を旅に連れ出してくれる、救いとなるもの。なのに、それを適当に手に取ってしまったから、わたしは悲しみ、落胆していたのか。

ああ、これは、もっともだ。すまなかった。

今日はゲームをすべきじゃなかった。何をしても消化試合みたいな状態のときに、本来エキサイティングで楽しいはずの体験をぶつけるべきではなかったね。
パソコンのデータ整理とか、ただぼーっと画集を眺めるとか、今日わたしがすべきはそちらだった。

しんどいときに「しんどい状態が嫌だ、楽しくいたい」と思うのは当然のこと。でも、無理やりその状態に持って行こうとするのは強引だった。
しんどいときはしんどいままでできることを淡々とするのが、わたしにとって自然なことであるらしい。

いまから、少しだけ、不調のためのヨガをしよう。そして、そのあとの時間は、しんどいままでできることだけをして過ごそう。

間違えたけれど、ちゃんと気づけた。
きっと、同じ轍は踏みにくくなる。

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