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条件、根拠、なし。

noteを書くのは約5ヶ月ぶりになりました。

春休み、4月から新しい職種での勤務、いろんな経験をした一学期を経て
夏休みに入ったら自分のやりたいことに専念するぞ!と思っていたら、まだまだ小4.小2の息子たちは母に構ってくれるもので
結局旦那が夏休みに入るまでnoteが後回しになっていた。

『しあわせなおかあさん塾』での学びも半分を超え、子供の発達を学ぶと、子供の行動の意味が分かる!分かる!なんだそうだったのかー!というスッキリ感!

親の直感でいきあたりばったり育児をしてきて申し訳なーい(涙)
親が先回りして必要な経験を奪ったりして散々やらかして来ていたことを、
この夏はやり直し期間と設定!
認める、見守る、信じる子育てをする!
脱・過指示過干渉過保護!

と、日々取り組んでいるものの
つい、なんか、ちょっと、
オラァァアアァ?なんじゃこりゃ?
何やってんの?みたいな怒り方をしてはまた自己嫌悪、の繰り返し。

その感情分析をまとめるべく、久しぶりに書きます。

目の前に起きている事、一つ一つに対して
なんで?なにやってんの?
という感情が起きてくるのは、
私の思い通りになっていないから。

子供はあくまでも私とは別人格で、別の感情、別の興味関心意志を持っているのに、コントロールしたくなる理由。

ちょっと見えて来た。

例えば集中力のない子供の様子を見て、怒りの感情が湧いてきた場合。
それは一つのことをやり遂げられない自分自身を否定しているから。

掃除の途中なのに、ふと思い出した別のことに手をつけて、そうこうしていたら次の予定の時間になって、ありゃ最後まで出来なかった、ということがあった場合、その最後まで掃除できなかった自分はダメなんだ、ほかのことに気を取られた私はだめなんだ、と、無意識で息をするように、当たり前のように自己否定していることに気づいた。

目を覚ましている時間、ずっと小さな選択をしながら毎日を過ごしているけど、
無意識のうちにその選択一つ一つに「否定」を上乗せしていることに気づいた。

気が利く私、家事が好きな私、効率がいい私はマルで、
ダラダラしてる私、片付けられない私、綺麗じゃない私、体力がない私、厳しい私、イライラする私には、バツをつけている。
無条件で、どんな私にもマルだよ、どんな時もどんな状態でも、私には価値があるんだって、自分のことをこれっぽっちも思っていない。

だから子供にも同じように
集中して取り組む子供、決めたことは守る子供、マナーを守る子供はマルで、
ダラダラしてる子供、時間を守らない子供、片付けない子供、うるさい子供、汚い子供はバツって、条件付きで見ている。

学歴とか、学力とか、スキルとか、
数字で表されるような価値基準が自分にないことが、心の奥底でどこか否定の材料になっている。

大切に大切にその自己否定を温めてきた分、
自分の良いところ、と言われる部分に逆にしがみついてきていた。
それが自分への厳しさにもつながり、子供への厳しさにもつながり、負のループにまだ乗っかっているのだ。

なんとなく見えて来た、かな。そのループの仕組みが。

目の前でだらけまくっている子供を見て
騒がしい、不快になる音を立てまくる子供を見て

イラッとしたら。

だらけちゃうその後ろにある気持ちはなんだろうって
やめてって言ってもやめないくらいうるさい声や音を立てるのは、そこも含めて丸ごと受け止めて欲しいっていう子供の心を思い出そう

必ず子供の行動には理由があるし
子供は素直で賢いから
親の願いを叶えてくれているのかもね
親がこの子はだらける子、勉強しない子、わたしを怒らせる子、と思っているのだから。

無意識の呼吸を
一瞬、呼吸を止めたり、ゆっくりにすることは意識的にできるんだから
感情も選び取ろう

問題、と感じる行動そのものが問題ではなく
問題、と感じるわたしの心が問題なのだから。

だらけてる私はダメじゃない。
私だっていつもダラダラ携帯見てるじゃん。

人に対して不快になる行動をする私はダメじゃない。
人の目を気にして我慢してる行動があるから、好き放題やってる子供を見て嫉妬してるだけじゃん。

だれかに愛されているから価値があるのではない。
何もないと思っている自分自身の中に無条件の価値を見出すことが、きっと解決の糸口だ。

条件はなくとも
根拠はなくとも
大丈夫。

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