どうもこんにちは、池田弘佑です。
タイトル通り、陸上競技を引退することにしました!
引退の決意
ついに自分にもこの時が来たか、というのが正直な感想です。
元々、陸上を続けるモチベーションがなくなったらやめようと思っていましたが、常に陸上へのやる気に満ち溢れていました。
ですので、引退は当分先の話だろうなあと考えていました。
しかし、その時は突然訪れます。
6月に海外遠征を終え、帰国した後のことです。
当初は遠征による疲れだろうと考えていましたが、いつまで経っても走ろうという気になれませんでした。
あ、これが引退する時か。そう思いました。
思えば、ずっとやりたかった海外転戦が実現し、コーチをつけ、陸上に思う存分取り組める環境を手に入れたこの1年間。
やりたかったことがほぼ全て叶ってしまいました。
そして、一時のブランクがあったことから、競技レベルも以前の水準まで戻すこともできていません。
これだけ恵まれた環境にも関わらず、目標と現実のギャップは、越えられない壁のように感じてしまいました。
言い換えるなら、ここまで陸上に全力を注げる環境でありながら目標を達成できなかったことで、諦めがついたのかもしれません。
たらればになりますが、もしかしたら、あと一年続ければ体力的には完全復活できるかもしれません。
しかし、少なくとも精神的なエネルギーはもう残っていないようです。
今まで陸上に注いでいた時間と労力は、今は別のこと(=仕事)に向けられるようになりました。
思考の大半が陸上で埋め尽くされていた時間は、あれだけ陸上に熱中できていた時間は、もう戻ってこないのでしょう。
私の生活から陸上は無くなってしまいましたが、不思議と空虚感のようなものは感じません。
仕事で生活が満たされているからかもしれませんが、あれだけ執着していた陸上を、意外にもあっさりと引退することができました。
ずるずる引きずったら嫌だなと思っていたので、その点においてはよかったかもしれません。
しかし、陸上を引きずってはいないですが、だからと言って陸上が嫌いになったわけでもありません。
陸上があった場所が、仕事にそのまま置き換えられたとでも言いましょうか。
仕事に自分の意識が向かうようになり、陸上が意識の外に追いやられているようです。
嫌いというより、一定の距離を保つようになった、という方が適切かもしれません。
引退試合をしないの?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は行いません。
理由は単純、引退試合を走るほどのエネルギーがないからです。
レース一本くらいならなんとかなるかもしれませんが、その試合までに毎日練習をし、食事の管理も行わなければなりません。
今までは難なく行えていたことですが、今の私にとってはとてもハードルが高いことになってしまいました。
また、陸上の練習をしていく中で、最も貴重なリソースは時間であることを痛感しました。
時間さえあればもっともっと上を目指せたかもしれませんが、とにかく時間が足りませんでした。
練習をするにも、回復するにも、何をするにも、とにかく時間が必要でした。
今は仕事や勉強に時間を割きたいので、諦めた夢のためだけに練習の時間を確保するのは、とてももったいないと思っています。
引退レースをすることで得られるものと、その時間を他のことに費やすことを天秤にかけた結果、私は引退試合をしない選択をしました。
16年間の陸上人生
振り返ればとても恵まれた競技人生でした。
10代のうちは長距離を専門としながらも全国大会とは無縁の競技生活。
(県大会すら突破できませんでした)
22歳の時に短距離に専念することを決め、そこからどんどん記録を伸ばし、日本記録樹立やオリンピック日本代表になるまで成長することができました。
競技人生の分岐点はいつだったのでしょうか。
多くの人が、2021年の世界リレー日本代表選考会だと思うかもしれません。
それとも、全国初入賞した2017年の学生個人でしょうか。
46秒台に突入した愛媛国体でしょうか。
しかし、どれも私にはしっくりきません。
もちろん、これらの試合は大きく私の競技人生を変えたことに違いはありません。
しかし、最も大きな分岐点は、忘れもしない2014年10月5日の関西医歯薬だったと思います。
それまで5000mを主戦場にしていた私が800mに出場し、2分00秒20というタイムでフィニッシュしました。
短い準備期間にも関わらず当時の私にとって予想を大きく上回る好タイムをマークでき、とても驚いたのを覚えています。
長距離が自分の適性種目だと思っていた先入観を壊し、距離を短くしていくきっかけを作ってくれたレースでした。
努力とは?
そしてそれと同時に、努力とは何なのか?考えさせられる出来事でもありました。
10代の私は県大会すらも突破できない成績でしたが、努力を怠っていたわけではありません。
むしろ、主観的な努力度合いは、日本代表になった頃を上回っていたかもしれません。
もちろん、当時は今と比較してもまだまだ未熟だったので、努力の仕方に改善の余地があったことは否めません。
しかし、青春の全エネルギーを捧げてきたのに、それほど記録を伸ばすことはできませんでした。
それと比較して、20代の私は努力していたというより、ただただ陸上に夢中になっていたように思います。
コーチはいない。チームの練習は週3回だけ。しかも長期休暇やテスト期間など、年間6か月はフリーという環境。
どんな練習をしようが、そもそも練習をするかどうかも完全に個人の自由。
そんな中で、毎日の練習が楽しくて楽しくて、明日はどんな練習をしようか、次の試合はどんなレースをしようかと考えて過ごしていました。
為末大さんがおっしゃっていた「努力は夢中に勝てない」という言葉がありますが、まさに私のことだなあと思います。
苦しいことに耐えているだけでは、それを楽しんでいる人には到底勝つことはできません。10代の私は前者であり、20代の私は後者でした。
陸上に夢中になれたのは、鳥取大学医学部に進学したからに他なりません。
前述の通り、自由な練習環境。
もし仮に、高校生の頃に花開いて強豪校に進学しようものなら、”努力”だけをしていたかもしれません。
よく、中高生の頃から短距離をしていたら良かったのでは?と問われるのですが、私はそうは思いません。
むしろ、今のような競技成績を残すことはなく、早々に陸上が嫌いになっていたかもしれません。
もちろん意図したことではありませんが、結果的には記録を伸ばし、陸上愛を育む最高の進路選択だったと言えるでしょう。
たくさんの出会い
ここまで記録と成績を残せたのも、たくさんの出会いに恵まれたことが飛躍の要因でした。
中学高校では、顧問の先生に走ることの楽しさを教えてもらいました。
先生方との出会いがなければ、それまでサッカ一少年だった自分が、ここまで陸上にのめりこむこともなかったでしょう。
また、自己管理の方法も学びました。試合の日はどんな準備をしていけば良いか?
最初は手取り足取り教えてもらいながらも、少しずつ独り立ちできるよう促してもらえました。
分刻みで試合の日のスケジュールを立てる習慣は、引退するまで継続していました。目標から逆算して予定を立てるクセは、この時に培われたと思っています。
中高大のチームメイトにも恵まれました。円盤投げおじさんをはじめ、素敵な出会いがたくさんありました。
凝り固まった考えを持ち、狭い視野だった私を受け入れてくれた仲間たち。そんな人たちとトラック内外で過ごした時間はとても充実したものでした。
大学1年生でいきなり中距離パートを立ち上げたい、なんて言い出した私に反対することなく、背中を押してくださった先輩方には頭が上がりません。
医学部陸上部らしからぬ高いモチベーションを保ちチームを牽引してくださった先輩方のおかげでもあります。
陸上を頑張る雰囲気があったからこそ、自分も自然と練習に打ち込むことができました。
私はチーム外の選手に最も助けられた選手かもしれません。
大学進学を機に鳥取に来てからは、鳥取県内の高校の先生方に度々指導していただいていました。
また、鳥取県外の高校、大学、実業団の練習にもよく参加させてもらいました。
文字通り北は北海道、南は沖縄まで、日本中のチームに赴きました。
現役終盤には海外にも行くこともありました。
縁もゆかりもないチームであっても、どこに行っても、温かく迎え入れてもらったと思っています。
そこで出会った仲間たちは良きライバル、そして良き友人となり、私の競技人生や人生そのものも豊かにしてくれました。
陸上を通じて得られたことは、出会いだけではありません。
目標から逆算して練習する計画性、地道に努力することの大切さ、そして、血の滲むような努力をしても目標を達成できない現実。
どれもこれも、今の私を形作るには欠かせないものたちです。
よく、「競技人生は苦しいことの方が多かったけど、大きなものを得られた」というような言葉を耳にすることが多いのですが、私の場合は楽しいことだらけだったなあと思います。
うまく記録を伸ばせなかった日々も、苦しい練習も、それはそれでとても楽しく充実した日々でした。
競技を通じて伝えたかったこと
私が競技を継続してきたのは、陸上に夢中だったからだけではありません。
競技を通じて、様々な発信もしてきました。
スポーツ選手が競技だけをしているのはとても勿体無いこと。
その知名度を活かして、社会貢献活動を行う役割がある、そう思っていました。
私がやってきたことは2つ。地方での競技の活性化と、多様性の発信です。
関東や関西と比較して、鳥取県の練習環境が恵まれているとは言えません。
練習場所、練習相手、指導者、トレーナーの数、どれをとっても都会には遠く及びません。
また、公共交通機関も発達していないことから、県内外の移動も制限されています。
その限られた環境でも、競技力向上のためにできることはないだろうか?
常に考えていた競技人生でもあったと思います。
小中高で陸上教室をしたり練習会をしたり、練習会を開催したりしたのも、日本トップレベルの環境で感じた、学んだことを少しでも鳥取県や地元の但馬に還元できたらと思って行ったことでもありました。
また、今まで企画に関わった中で最も大きなイベントは何といってもみんなでつなごうリレーフェスティバル(以下リレフェス)でしょう。
東京オリンピックが終わった頃から川端魁人選手(=現中京大クラブ)と話し合って、ヒアリング行脚したり、オンラインミーティングしたり、プレゼンしたりして、実現することができました。
誰にでも開かれた陸上界にする、その一助になればと思っての取り組みでした。
リレフェスは今年(2024年)で第3回を迎えます。
今となっては一般の参加者だけでなく、トップアスリートも積極的に参加してくれるイベントとなりました。
第1回の時は胡散臭がられて、なかなか参加者が集められなかったのもいい思い出です(笑)。
年齢も、性的指向・性自認も、人種も、障害も超えて、あらゆる人たちが陸上を楽しめる、そんなイベントになってくれたらなと思います。
最後に
これまで私を育ててくれた陸上競技と、競技を通じて出会えたたくさんの人たちには感謝してもしきれません。
陸上からは離れてしまいますが、陰ながら皆様を応援しています。
陸上界と、私と関わってくれた方々に幸多からんことを!
今まで本当にありがとうございました!
またね!
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