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『蜚語』第11号 特集 労働の現場から(1991.5.25)

【表紙は語る】

命かけて 命かけて
築きあげた 職場
この職場に 闘いの火を
燃やし続けよう
人とし生きるため
子らの未来の為にこそ
搾取の鎖を断ち切ろう
(三井炭鉱労働歌「人とし生きるために」より)

『蜚語』第11号 表紙

もの言わぬは腹ふくるるの業

○月○日 A国「女性問題協議会」が「『シンデレラ』は、女性への差別と偏見を助長するもの」とのアピールを発表し、『シンデレラ』批判運動を展開。
○月○日 J国 P市の10代の女性がA国のニュースを知り、自分もかねてから『シンデレラ』の世界観に不快な思いを持っていたので『シンデレラ』を出版している数社に宛てて手紙を書く。J国 I 社・S社・B社などが『シンデレラ』は、女性への差別と偏見を子どもたちに植えつけるものと判断して絶版を決定。
○月○日 先の P市の女性は、子ども向けキャラクター商品やおもちゃなどに、女性をステレオタイプ化したものがいかに氾濫しているかを調べ、収集しようと試みるが、あまりたくさんありすぎて、とても集め切れないくらいだと訴える。
○月○日 Y市において「子ども文庫」活動をしているZ氏(男性)が、「『シンデレラ』は女性差別などではない。あれほど古今東西の少女たちに夢を与えてきた名作を絶版とはとんでもない」と、独自に『シンデレラちゃん』を出版。全国の「子ども文庫」活動をやっている人びとから支持を受ける。

「私たちは、子どもが本に親しみ、本が好きになることを願っています。(中略)『シンデレラ』は、魔法使いの杖の1振りでかぼちゃが馬車になったり、ネズミが馭者になるので、子どもたちはたいへんおもしろがっています。また、継母と2人の姉にいじめられてきたかわいそうなシンデレラが、やがては王子様と幸せな結婚をするという物語から、今は苦しくても真面目に辛抱すればやがてむくわれるということを、子どもたちは自然に学んできました。(中略)
 このように長い間子どもたちに親しまれ、夢と希望を与え続けてきた本が絶版になったのはほんとうに残念です。

『シンデレラちゃん』「発刊にあたって」

○月○日 P市の女性はZ氏宛てに抗議の手紙を出すが、無視される。
○月○日 T市のK出版から『シンデレラ』絶版は是か非か、賛否両論を掲載した「『シンデレラ』絶版を考える——私たちは『シンデレラ』が大好きだった——」が出版される。

「私たちは子どものときから『シンデレラ』に親しんできました。内容に女性差別があるとは思いませんでした。女の子ならだれでも1度は夢見たかぼちゃの馬車とガラスのくつ、そして白い馬に乗った王子様は、何よりも私たちに夢を与えてくれました。だからこそ、多くのお母さんたちは自分の子どもに『シンデレラ』を読み聞かせてきたのです。この子たちが大きくなって幸せな結婚ができるようにとの願いを込めて」

『「シンデレラ」絶版を考える』「編集にあたって」

○月○日 『女性民主新聞』「新刊紹介」に『「シンデレラ」絶版を考える』が紹介されるが、その紹介のしかたについて、読者のEさんから疑問の声が上がる。

「……差別だから絶版、でもその前になぜ差別なのか論議を深めていくことの方が、『差別』について問うことができるのではないだろうか。そういう意味で、期待されていた本だ」

『女性民主新聞』○月△日号

 『シンデレラ』——着飾っていなければ、自分が好きになった女性の見わけもつかないバカな王子——だいたいこのテの物語に出てくる王子はみなこの程度なのに、そこに登場する主人公であるところの女性は、バカな王子にあこがれ結婚してハッピーエンドとなる。この『強制異性愛社会』と結構願望のおしつけ。しかも主人公の女性は、色が白くて、口が小さくて、痩せていて、目が大きくて、素直で気だてがよく、優しい。決して人に逆らったり、怒ったり、声を荒げたりしない。これが女性への偏見と差別でなくてなんであろうか。(中略)
 私たちはこの国の、差別と分断によって成立していると言っても決して過言ではない社会で生まれ育ち、教育されてきました。自らに染み込んだこの社会の価値意識――それは、無意識のうちに物事の好き嫌いまでも決めてしまっています。自らの嗜好をも疑ってみることをしないで、どうしてこの差別社会を克服できるでしょうか。美しいと思う気持ちさえ、その基準はその人の価値意識によるものだということを、私たちは『ミスコン』反対の運動のなかで確認してきました。赤切れひとつない白くて組い指の女の手と、節くれだった働く女の手のどちらを美しいと思うか——。
 また、差別されている者が『不快である』『差別である』と訴えているものに対して、『差別か差別じゃないかは、論議してみなければ分からない。それを一方的に絶版などを迫るのは表現の自由の侵害だ』いう人びとがあとを断ちません。しかし、まず本であるのならば少なくとも、店頭から、図書館から引き上げなければ、その間にもそれらの差別的なものは、子どもたちゃ人びとの目に触れます。そして、そこから恒見や差別は日日、再生産されていくのです。
 『ミスコン』や広告における女性差別への抗議に対して、それらを生みだしている人びとは『別に差別とは思っていない』と言い続けています。(中略〉
 そのような意味において私は『「シンデレラ」絶版を考える』は、『シンデレラ』そのものより悪質な差別図書だと考えます。『シンデレラ』の問題が、性差別撤廃の運動によってではなく、一人の若い女性からの告発によったことを評価する反面、これまでの運動の質を問い直すことの手始めとして、K出版に対して抗議文の提出を提案いたします。
 差別撤廃運動に取り組んできたはずの『女性民主新間』が、この本をこのように評価することを、たいへん残念に思います。(後略)』

Eさんが『女性民主新聞』へ宛てた手紙

○月○日 K出版の読者を中心に組緞されている宗教法人「良心的出版社友の会」の信者たちが、「タブーに挑戦して、勇気ある出版を行なっている出版社の本を批判するなどとんでもない。あるものを一方的に差別だと決めつけるやり方は、言論・出版の自由を侵すものだ」と「信者声明」を発表。「言論の自由を侵すべきでない」「名作は残すべきだ」「子どもの夢を奪う権利があるのか」等等の主張が展開される。
○月○日 N市が「国際女性マラソン」の開催地になるというので、「国際化と女性差別撤廃」を掲げ、市内の図書館に対し『シンデレラ』を廃棄処分するよう通達を出す。
○月○日 N市の措置に対して、子ども文庫活動に携わる人びとを中心に批判が集中。また、K出版発行の『「シンデレラ」絶版を考える』も図書館の棚から消えたことが分かり、K 出版社社長は「まさに焚書だ!」と憤慨。
○月○日 A国からの留学生Jさんが書いた『日本人の女性観』がS出版から刊行される。

 「私はK 出版からインタビューを受けたとき『シンデレラ』の社会的・歴史的な差別性を説明した。にもかかわらず、できあがったインタビューの原稿は、女性の結婚願望は作られたものだという私の主張に疑問符が付いてきた。……この本の編集方針に疑問を持ったので、インタビューの掲載を断った。思ったとおり、できあがった本は、『私たちはシンデレラが大好きだった』というサプタイトルが付いている。(中略)
 掲載を断った後、毎日のように電話がかかり『考え直して欲しい』とのことだったが、その気がないと分かると『法的な問題にしなければならない』という脅迫のような手紙がきた。それに対して私は、その理由を詳しく説明した手紙に、『裁判になるなら証拠が必要でしょうから、これからは手紙でやりとりしましょう』と書いたら、それからぷっつり電話がこなくなった。

『日本人の女性観』J著S出版

この物語は事実にヒントを得たフィクションです、念のため。遠藤京子

☆☆☆☆☆

特集 労働の現場から

乗務中の高橋洋子さん(1991年4月3日、東京都・都営バス車内)

発車、オーライ。乗務することが、闘いです。 ——東京交通労働組合婦人部。

 私たちが子どものころ、バスの車掌さんは〝将来なりたい職業〟のベスト3に入っていました。紺の制服できびきび働く姿は、子どもたちの憧れでした。ル』なんて、歌謡曲もはやりました。 

 忘れもしない1970年12月8日、「いま、本部がワンマン化を認める決議を採択してしまった」と、悔し泣きの声が電話口の向こうで言った。臨時大会会場からの高橋洋子さんの電話の声を、私は今もよく覚えている。
 東京交通労働組合(東交)第36回臨時大会は、多くの女子車掌の反対を押し切って、当局が提案してきたオールワンマン化(註1)を受け入れる、つまり組合としては反対しないという方針を採択した。しかも、ワンマン化に反対する婦人部組織を凍結(註2)し、執行停止処分などを行なった。この臨時大会は「女子車掌の涙と怒号のなかで……」と後後まで言われる。

 この1970年からの20年間に、国鉄の分割民営化、国鉄労働者の大最首切りがあり、総評が解体され、労働組合の再編がなされていった。全国規模の国労から見れば東京都交通局の東交婦人部の開いはローカルには違いないが、私は東交婦人部のその後の囲いに感動し、困難な闘いを続ける彼女たちに声援を送る。と同時に、「1人の首切りも許さない」と言いつつ合理化を認めていき、じわじわと切り崩されてきた日本の労働組合を暗澹たる思いで見る。

(註1)
 それまでバスは、車掌さんが乗務していて、バスの前後の安全確認後「発車オーライ」と言ったり、行き先によって料金が違うから、乗客1人1人のキップを切ったり、「次は〇〇です」なんて言ったり、お年寄りに手を貸したりしていました。今では、〝ワンマン〟はあたりまえになってしまっていて〝ワンマンバス〟などという言葉さえも聞かれません。

(註2)
 婦人部員のほとんどは車掌で、ワンマン化によっていわば職場がなくなり、配転させられる当事者です。「私たち東交婦人部は、闘いの伝統を引き継ぐ中で第22回定期大会を開催し、討論をはじめようとしています。しかしこの22回定期大会がなんと、21回大会以降26か月ぶりで開催されるという異常な状態の中で持たれていることを、私たち全体がまず始めに確認してゆかねばならないと思います。この26か月という期間は、単に延びたというだけではなく、70年12月8日第36回東交憩時大会に採択された運動方針をめぐって、親組合である本部と私たち青婦人部の中に大きな亀裂が生じ、この大会以来まる1年半、婦人部活動の実質的な凍結状態の中で各支部婦人部の自主的な活動によって、また婦人部1人1人が、1つ1つの問題を真剣に考え摸索しながら歩み続けて26か月間でした。(中略)この26か月の婦人部の活動は『労働運動とは誰のためにもやるものではない、労働者自身、自分の生活を守るために自分が闘うのだ! 闘わなければ追いつめられるのは一番弱い労働者なのだ』ということを教えてくれたと思います。

東交婦人部第22回定期大会議案書/1972年8月24日

 当局、組合一体となった嫌がらせにめげず、現在も車掌として乗務を続けているのは都内に4人、そのうちの2人が目黒営業所にいる。昨年末のある日、高橋洋子さんと丸山絹子さんに、お話をうかがった。

——東京交通局に入ったのはいつごろですか。
高橋
 1966年に北海道から集団就瞼で来ました。同期入局した車掌は350人、目黒には50人です。集団就職の最後じゃないかしら。当時は結婚退職する人も多かったので、18歳の新人から見ると25歳すぎてまで残っている人がずいぶん〝歳〟に見えました。私たちだって、こんなに長くいるつもりはなかったよね(笑い)。

丸山 私も同期で福島からです。私なんか中学を卒業して……15歳だったんですよ。当時車掌をたくさん必要としていた当局は、すごい立派なパンフレットに、鉄筋5階建ての豪華な女子寮の写真を載せて、学校に配るでしょう。私なんかそれを見て憧れてきたようなもんです。でも、来てみたら、実際入れられた寮はプレハブ2階建てで、8畳に4人だったね。当時はそれがあたりまえと思っていたから、そう苦痛は感じなかったけれど……。

高橋 1部屋に4人で動務時間がみんなばらばらだから、いくら若いといっても結構負担にはなっていました。

丸山 そうね。今から思えば15歳で朝の4時半に起きて仕事に行くんだもの、そのとき遅い勤務の人はまだ寝ているわけだから、けっこう辛いときもありました。

——ワンマン化案が出てきたのはそれからどのくらいたってからですか。高橋 私たちが入った当時でも、杉並なんか都電が撤去されたあとワンマンが入っていました。都の再建団体指定が目前に迫っていたけれども、労働組合との関係で大量の地方募集をしたのだと思います。だから、もうワンマン化になるのが分かっていて採用されたわけです。だから私たちにしてみれば、当局にだまされたと思うわけです。

——組合がワンマン化を認めてからの婦人部の闘いは?
高橋
 とにかく乗り続けなければ、自分の職場がなくなっちゃうんだから、みんな子持ちになっても乗り続けてきたわけです。保育園の送り迎えに間に合うような時間帯に乗務できるように組まれた「ママさんダイヤ」を要求し、確保し続けるために闘ってきました。
 組合と当局とのいわゆる「ワンマン協定」で、現在残っている車掌の強制配転はしない、乗務を保障するということになってはいますが、当局の嫌がらせはひどく、1年3か月の育児時間が切れたことを逆手にとって、わざわざ普通ダイヤヘの乗務を強要してきました。普通ダイヤだと、いちばん早い出勤は5時半です。そこで私たちは、5時半に子どもを連れて出勤し、乗務するから所長が子どもを見ているか、保育園へ送っていけと、実力行使もしたわけです。それで、ママさんダイヤを確保し続けてきています。

丸山 オールワンマン化にあたっての私たちへの娘がらせときたら、数え上げればきりがないほど。運転士へのワンマン手当によって、運転士と車掌の分断を図ったり「女は家庭に入るべきだ」とか、「停年まで乗る気か」と威したり……。でも配転して事務職になっても、最初から事務職採用の人との差別があって、後悔している人や辞めていった人もいます。

——これから、どうなるのでしょう?
高橋
 現在大きな問題としては車両のことがあります。それは、新しい車両には車掌台がないんです。そうすると乗りたくても乗れない、もうどうしようもないという状況です。古い車両が一台もなくなってしまえば……。

丸山 合理化のなかでの、女子車掌切り捨てなんてことがなければ、私たちもとっくに結婚退職していたかもわからないよね(笑い)。だけど、差別されたり、嫌がらせを受けたりしていくなかで、労働者意識にも目覚めたし、逆に停年まで乗ってやろうなんて思うようになったわけ。20年の間に合理化案が出されると、女子車掌の首切りが筆頭に上げられてきました。そのなかで、乗り続けてきたのだから、ほんと、強くなったと思います。

高橋 いま残っている4人はもう全員40代、きつい仕事ではあるけど、まだまだがんばります。

丸山 東交の女子労働者の開いには戦前からの歴史があって、その戦闘的な闘いの様子は油絵にも描かれています。それは今、組合本部のある東交会館のロビーに掲げられていますが、私たちもその先輩たちの闘いを継承していきたいと思います。
                *
 この女子車掌廃止といった合理化の前に「都電撤去」があった。彼女たちが入局した同じ年、1966年12月の定例都議会本会議で、共産党以外の各議員が賛成起立して決まった。先のインタビューで高橋さんが言っている都の再建団体指定とは、都電・都バスなどの累積赤字が65年度で225億円にものぼり、都電・トロリーバスの撤去と余剰人員6059名の退職と配転による人員整理などを盛り込んだ合理化案を条件に、赤字を財政再建債に切り換ぇ、国からの援助を引き出すといったものだった。67年に誕生した革新美濃部都政も合理化の歯止めにはならず――なるわけないか、社会党も東交本部も賛成しているんじゃ。だけど、このとき人員整理の対象になった人びとは、労働組合の一員として革新都政を実現しようとがんばった人びとでもある——東交本部は都電撤去に反対する支部や組合員を「統制違反」として処分した。
                *
 高橋洋子さんが乗務する、目黒と日本橋三越間を走る路線のバスに乗った。都バスは老人の乗客が多い。車掌台から身を乗りだして、乗ってくる老人に手を貸すなど、車掌がいなければあり得ない姿だ。
 走るバスのなかで、実にてきぱきと切符を切ったりしながら、乗客全員に注意を注ぐ。「つぎはー〇〇です。お降りの方はいらっしゃいませんか」と言いながら、車内をぐるりと見回し、降りる合図をちょっとすると「はい」と確認。「つぎ願いまーす」と運転士に伝える。慌てて立とうとする乗客に「交差点を渡ってから止まりますから、まだお座りください」と声をかけたりもする。
 聞けばワンマンバスにはミラーが、10個付いているという。運転士はこの交通渋滞の都心を運転しながら、常に10個のミラーに気を配り、料金を回収したり、回数券を売ったり。バス停での乗客の有無、乗降客への諸注意もある。このすべてを1人で行なうなんて過重労働もいいとこだ。


東芝の〝インフォーマル・グループ〟「扇会」告発行動。『蜚語』第11号 p14 

企業カラーに染まらないと、〝職場八分〟——東芝府中工場

 〝明るい東芝、世界の東芝〟と、自らを宣伝している東芝の府中工場で8年前、1人の労働者が会社を相手どって訴訟を起こした。訴えを起こしたのは上野仁さん。彼は職場での上司からの執拗な嫌がらせの結果、「心因反応」をきたし入院を余儀なくされた。入院のため休んでいる間の賃金はカットされ、その後、職場復帰したあとも、職制ばかりか同僚からまで、さらなる追い打ちをかけられることになる。
 この裁判は昨年2月の1審判決では、部分的に原告の主張が認められたが、会社側は即刻控訴し、現在東京高裁で控訴審が進められている。「東芝府中工場から職場八分をなくし、上野仁さんを守る会」が、この闘いを上野さんとともに歩んでいる。
               *
 上野仁さんは不思議な魅力を持った人だ。ひとことで言うなら、徹底した〝省エネタイプ〟とでも言おうか。ともかくこの人が、あの大工場での職制のいじめにも屈せず、裁判までやってきたのだろうかと思ってしまう。ともかく何か構えたといった雰囲気がまったく感じられない人なのだ。ある意味では、今もっとも時代の先端を行くタイプ、そう、とにかく優しいのだ。
               *
 上野仁さんは、1975年4月、秋田の高校を卒業後、東芝府中工場に入社した。求人のために高校に送られてきた東芝のパンフレットに載っていた赤い電車を、自分も作りたいと惹かれたのが動機という。入社して2年後には技能5輪で賞を取るなど、「真面目で立派な」工場労働者だった。「真面目で、立派」だからこそ、その後〝職場八分〟を受けるようなことになったのかも知れない。
 この国は、ものごとを真面目に考えたり、何であれ関心を持ったりすることは軽蔑され、なんとなくその場の流れに流されて生きることが、賢いとされている。だから上野さんのような「真面目で、立派な」存在は、奇特なことであると同時に、うとましい存在でもある。
 技能5輪で賞を取るほど真面目に働く一方、工場で働くだけがすべてではないと、寮の友人に誘われて入った読書サークルに参加したあたりから、職場での彼に対する対応が変わってくる。しかし、ちょっと考えてみれば分かるように、現在の社会では人びとは働くことそのものを目的としているわけではない。働いて金を稼いで、余暇を楽しく自分がやりたいことをするために使うのは至極当然のことだ。それも彼に言わせれば「ようするに暇だったんですよね。当時まだ20代で体力もあったし……」といった動機だった。サークルヘの参加を知った上司は、辞めるよう勧告する。しかし、社外(ほんとうは社内であっても自由なはず)のサークルヘの参加にまで会社が口を出すこと自体がおかしい。辞める意志のない上野さんは、週一回のサークルに出席するために、その日の残業を断わる。それに対して会社は、上野さんに以後いっさい残業をさせないといういやがらせを始めた。以来、彼は残業をしていない。
 上野さんに対する嫌がらせは、さらにエスカレートする。些細なことがらにもいちいち始末書を要求し、トイレにまで人がついてくるほど監視され、彼が所属する職場の全員が彼と挨拶もしなくなり、上司は何かにつけて彼を罵倒するなど……。上野さんはそのことが原因で「心因反応」を起こし、入院することになる。退院後、このままでは……と、会社と上司を相手どって、訴訟を起こした。
 この「東芝府中人権裁判」は、8年後の1990年2月1日、東京地裁8王子支部で第1審判決が言い渡され、「上司の行為の一部に行き過ぎがあった」「上野さんの心因反応の直接の原因には上司らの暴力行為が、またその遠因には労務管理の行き過ぎがあった」として、東芝と上司に対し、心因反応で休業中の未払賃金全額と慰藉料15万円の支払を命じた。勝訴といっても内容は、上野さんが訴えた12項目のうちの2項目が認められたに過ぎない。
 この裁判を支援してきた「守る会」も、「手放しで喜べるものではない」と言っている。しかも、会社側は控訴した。まだまだ闘いは続く。
 会社側の控訴に対して、それでは受けて立とうじゃないかと、上野さんも「付帯控訴」をした。もともと勝訴とはいっても不十分な内容だったこともあり、また、このかん判明した事実があったので、そのことも付け加えた。「付帯控訴状」では、東芝で行なわれている労務管理が、そんじょそこらの労務管理とはわけの違う、計画的・組織的なものだったこと、その一貰として上野さんに対する「いじめ、職場八分」があったことを、具体的資料を付けて提出した。
 1974年4月、東芝ではいわゆる「問題者」対策のために、会社組織とも労働組合とも違う、非合法・非公然な組織を結成、密かに会合を重ねていた。その会を「扇会」、その府中支部を「けやき会」という。結成当時の会のメンバーは下級職制、全国1800余名からなる。その機関誌『おおぎ』には、会の活動の驚くべき内容が書かれている。例えば、「問題者」の扱いについての「実践報告」がなされている。
 「……Bは22歳、独身、性格もおとなしく、仕事も熱心である。職場への不満もないようだが、各週木曜日となると仕事に関係なく私用があるとの事で残業に協力してくれない。理由を聞いても話さず、尾行してみるが網にかからない現状である」
 このようなものに始まり、だれが共産党の学習会やサークルに参加しているかとか、その人間に対してどう対応したかなどの報告がなされている。なかには、「職場委員」などを歴任した扇会メンバーの人物が、「顔の広さを利用して」共産党系の行事に参加し、だれが参加するかを確認するといったことまでやっている。——こういうのを普通はスパイ活動といいませんか——。
 労働組合の右傾化は、すでに完成されていて、最近ではとりたてて問題にもされなくなってさえいるが、扇会の活動を見ると、こんなふうに組織的に労働組合は無力化されてきたのかと、愕然とする。労働組合対策として、扇会のメンバーが組合役員に立候補し、非公然な形での会社や職制の「支援」を受けながら、——したがって他の候補者より有利である——ほとんど当選していくのだから、もうそんな労働組合は労働組合と言えない。

 「労働組合」とは、労働者が主体となって自主的に労働条件の維持改普その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体またはその連合体をいう。

労働組合法第2条

 上野さんは職場でのできごとを「職場日記」というかたちで記録し続けてきたが、それは職制の上野さんに対する〝いじめ〟の記録でもある。これだけの目にあってもなお彼が職場を辞めなかったのはなぜだろう。
——上野 やめようと思ったことも、なくはないですけどね。ようするにほら、どこへいったって同じだっていうことがあったんで、なら変わることもないと。それぞれ細かい意味での悩みの違いはあるだろうけど、自分の思いどおりにはならないということはどこに行ったって同じわけです。81年、82年あたりは、あっちに揺れ、こっちに揺れしていた時期ですね。結局ね、ずるずる、ずるずる辞めないできちゃったといった感じですね。
                
 会社は執拗ないじめによって上野さんが自分から辞めていくだろうと思っていたのだろう。上野さん自身も、友人たちもそう思っていた。また実際、当時府中工場を辞めていく人も少なからずいた。

 ——上野 仕事はそれなりに4~5年すれば覚えるので、仕事上の不満はないのですが、挨拶してもらえないとか、道具も貸してもらえないとか、ちょっと分からないことを聞いても、教えてもらえないとかで、だれでも
嫌になりますよね。
 
 彼はこの裁判を始めてから、仕事一筋に打ち込むということはやめた。基本的に1日8時間、週休2日、有給休暇が年間20日、欠勤しなければ査定が悪くても金はもらえる。年収370万円、物を買うためにあくせく働かない。

 ——上野 私の場合、家を買わない。賃貸、賃貸で、死ぬまで賃貸でいくと考えれば、それだけでずいぶん気が楽になります。ローンのために働かなくても良いわけですから。

 裁判を起こしてから9年、それ以降も廠場の状態は決して過ごしやすいとはいえない。私は、裁判以降の職場でのことを間きたかったのだけれども「あんまりいい思い出じゃないですね」という彼の言葉で、それ以上のことを間かなくてもいいと思った。「83年くらいから始末書を書かされたことはないけれども、そんな変わってはいない。去年くらいから何とか落ち着いてきた」とはいうものの、慢性的な下痢や胃炎に悩まされている彼の現状が、職場の状態を物語っている。


1990年12月末、沖電気八王子工場門前で「断食闘争」。(写真提供•田中さん)
『蜚語』第11号 p16

会社で仕事はするけれども、人としての良心や人間の尊厳まで、売り渡したのではないはずです。——沖電気八王子工場

 1978年11月、経営危機を理由に1350名もの首切りを行なった沖電気。希望退職を募るといった建前とは裏腹に、目星を付けた人間に肩叩きをし、挙句の果てには指名解雇といったやり方は、会社が言うところの「余剰人
員」を整理するときにいつも使う手口だ。当時、マンドリンクラブの部長をしていた田中哲朗さん自身は、指名解雇の対象ではなかった。むしろ課長から「君は大丈夫だから、希望退眼をしないで欲しい」と自宅に電話があったくらいで、そのような電話のなかった人が結果的に「指名解雇」の対象となったという。マンドリンクラブのメンバーでは2名がその対象に入っていた。ほかにも仲の良い友人たちが解雇され、一緒に働いてきた仲間として、他の仲間がそうであったように、彼もまたその解雇撤回の闘いに支援の意思表示をする。
 ——田中 会社は人が多過ぎてやっていけないというのですが、僕ら仕事が忙しかったし、信用できなかったですね。僕の仲間で真面目な奴が首切られたし、この解雇はどうみても不当だと思いましたね。

 ところが、最後まで首切り反対を叫んでいた八王子工場でさえ、その様子がしだいに変わっていった。
 「指名解雇直後は、会社の門前で行なわれている闘争に支援の意思表示をするために、始業時間ちかくまでその場に立ち止まっている人が大勢いました。解雇された人がまくビラはみんなが受け取り、職場で読まれました。会社の行為にたいする批判の空気がまだ強かったのです。しかしテレビカメラで監視され、職制から呼び出されて説得されていくなかで門前に立ち止まる人も少なくなり、ビラを受け取る人も減ってきます。職場のなかでは『会社派』の人が福をきかせ、良心的な人びとは密告をおそれはじめます。そして1979年6月の組合支部委員選挙では、1人を除く約40名もの委員のすべてに会社の推す人が当選したのです」

「良心を踏みにじる沖電気を糾弾する」田中哲朗 『月刊労働問題』

 ——田中 なぜ僕がこれほどこだわっているかというと、会社がやったことはひどいというのが、根底にはあるんですけど、いちばんショックだったのは、「人が変わっちゃった」ということなんです。職場の仲間たちが
......。あれほど簡単に人というのは変わってしまうものなんだろうかと……。もともと会社に協力的な人はいたんですけど、そうでない人たちまでが転向させられていきました。そこで行なわれたことはほんとうににひどいことなんです。
               *
 今、沖電気八王子工場の門前では、ビラまきをしても受け取る人は、2000人のうち1桁という。会社はさまざまな踏み絵を用意し、人びとを分断してきた。仕事中に呼び出し「今からの沖電気で生き残りたければ、生き方を変えろ、考えを変えろ」「長いものに巻かれろ、バスには乗り遅れるな」と脅かした。それらを拒む人びとは給料の査定を悪くされ、仕事を取り上げられ、職場で孤立させられた。
 仲の良い後輩の結措式への出席を断られた人、サーブを誰も打ち返してくれなくなったテニス部の人、試作中の製品をごみ箱に捨てられてしまった人……。田中さんも、当時所属していた剣道部からは試合の連絡もしてもらえなくなり、同期入社の新年会への出席も、会社に逆らっているからとの理由で断られた。
 そして田中さんは、まさに〝企業ファシズム〟そのものの光景をまのあたりにする。1980年に行なわれた組合役員選挙では、会社が組合役員を1人残らず入れ替えるつもりらしいと噂が流れ、現役員は立候補を断念。職場には挫折感が浸透し、長いものには巻かれるしかないといったムードが要延する。それに対して田中さんは会社側候補者の対立候補として、組合役員に立候補した。選挙期間中の有様は、組合員に会社側の候補者の運動員をやらせることによって「身の証」を立てさせるなど、これが組合活動に対する不当な介入じゃなくて何なんだといったもの。首切りに関してあまり会社のやり方がひどいと、ビラまきを手伝った人は、工場長に呼び出された。「会社側候補者の応援演説をしないか」と言われ、「そうすれば君もバスに乗れるんだよ」と説得される(この人は第3回控訴審で田中さん側の証人として証言申請)。
 数百人の聴衆が集まった立ち会い演説会。田中さんたちの番になったとたん突然、数百人の聴衆が後ろ向きになり帰りはじめたという。だいたい労働組合の役員選挙において、会社側の候補者が存在すること自体、おかしい話だ。
 ——田中 私の職場でも1人を除いて全員、会社側候補者の選挙運動をさせられました。候補者の名前を書いた札を持って門の所に立つといったことを皆、1回はやっています。
               *
 その後、田中さんは仕事を干されはじめる。一時金はマイナス100%と査定され、予想されたことではあるが、翌年の5月、芝浦の営業職への配転命令が出された。これは明らかに会社に屈服しない者への報復であり、みせしめだ。田中さんは配転を受ければ通勤時間の関係で、保母として働いているいる妻への育児負担が大きくなるなどの理由でそれを拒否し、6月29日に解雇される。彼はその日から毎日、出勤時間に合わせて、門前で解雇の不当性を訴え、仲間たちに良心を取り戻そうという呼びかけを行な
い、毎月29日には終日、門前座り込みもやっている。
 一方で裁判も現在、第2審が進行中。1審判決は、田中さんが立証した当時の沖電気での事実をほとんど認めていない。2審は当時の職場の状況を知っている人を探し証人をお願いしようとしている。
 田中さんから次のようなお願いが届いているので、お心あたりの方はご一報を。
 「皆さんのお知り合いにICを使って仕事をした経験の方はいませんか。主に企業の中で、ICを使って装置を組み立てたり、修理したり、設計したり、あるいは営業のような仕事に関わった方はいませんか。
 また、1980年当時、沖電気八王子工場にいた人でその後退職した人をご存じありませんか。
 証人になっていただけない場合でも、話を聞かせていただくだけで大変助かります。どうか、早急にお知らせをお願いします」
               *
 田中さんが解雇されるきっかけとなった1978年の大量「指名解雇」の撤回闘争は数年前に解決して、解雇者の半数は職場復帰した。そのうちの何人かは、カンパを集めてくれたり、裁判の傍聴に来てくれたりしている。しかし争議団全体としての解決の内容は田中さんが訴えているものとは程遠く、争議はいわば彼を置き去りにして解決していったともいえる。したがって、職場の状況は相変わらず〝人権〟などどこ吹く風のようだ。
 ギターの名手である田中さんは、年に1回コンサートを開き、沖電気の企業ファシズム告発の弾き語りをやっている。そのことが地元の新間に報道されたとき匿名電話がかかってきた。年配者らしいその電話の主は「あなたの言っていることは分かる。その通りだと自分も思うが、どうしようもない。中高年者は職場の中でも余計者扱いだが、自分たちはこうしかできない。しかたのないことなのだ」と電話口で泣いていたという。
 その人の話によれば、「会社は職場の仲間、気の合った同士が旅行に行くのも嫌うので、ばれないように現地集合している」……とか「工場内の公衆電話の内容も聞かれている。下請け業者が公衆電話で悪口を言ったら、下ろされてしまった」……とか、おそるべき実態のようだ。
 田中さんは次のように言った。「強いものに逆らえない人間が、企業のなかでどんどん作られ、そういう親を見て子どもが育っていく。そういう社会は弱い社会で、何か起こったときに、ほんとうは人びとが止めなければならないのに、それができない社会となってしまう。しかも、いわゆる主婦たちはそのような職場の実態を知らない。そして、この国の企業の影響力は大きい。だから私は、そのことを訴えたいのだ」

田中さんの戦いにご支援を!
裁判の傍聴はもちろん、次の行動に激励参加を。
■月曜から金曜の朝7時50分から8時30分まで八王子工場正門前での朝の呼びかけ/毎月29日の八王子工場正門前終日座り込み/毎月第3金曜日お昼、虎ノ門沖電気本社前の抗議アピール……そして、彼はギターの名手で訴えを歌にして弾き語りをやるんです。皆さんのグループなどで、コンサートを計画してください。(※1991年当時)

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数学と自由——湖畔数学セミナー③ 永島孝

『蜚語』第11号 p20

 数学には自由な考え方が大切なのだが、こと数学に関しては、自由と言うと意外に感じられるかもしれない。2+3の答えはだれがいつ考えても5である。答えと言えばこの「5」のことだと思いこんでいる限り、自由があるとは思えないであろう。算術では「5」と答そればそれで十分なのだろう。しかし、算術は数学のほんの一部にすぎない。いったいなぜ5になるのか、そもそも2に3をたすというのはどういうことなのか、そういうことさえも考えるのが、数学という学問である。
 人類がいったいいつから数というものを考えるようになったかわからない。とにかく、それは言葉を話し始めたのと同じように遠い遠い昔のことに違いない。ただ数えるだけにとどまらず、人間はやがて数の世界の神秘を探り、法則を見いだすようになる。そして数千年にわたる努力によって数学を創り出してきた。
 われわれが実際に数えたりして体験できるのは、数のうちのほんのわずかな一部分に過ぎない。しかし、幸いにして、経験を超えた無限の世界を認識できる能力が人間には備わっている。有限の頭脳で無限を考え、有限の言葉で無限を語る。そういうことが人間にはできるのだ。
 1、2、3、……とどこまで数えたことがあるだろうか。数えたことがあるのはとにかく有限だ。何千何万を数えたことのある人でも、両手の指の数までしか数えられない子どもでも、有限であることには変わりない。それにもかかわらず、われわれは数が終わることなく無限に続いているのを認めている。1、2、3、のような正の整数にとどまらず、分数や零や負の数をも知っている。指を折って数える体験は大切だが、それにとらわれていると分数や負の数は認識できない。いま「こだわり」がはやっているらしいが、さまざまなこだわりから精神を解放しないと、数の世界の真理は見えない。
 たとえば、分数や少数がわかった、負の数がわかった、方程式がわかった、何かそういう瞬間を思い出してみていただきたい。それは何かのこだわりから解放されて精神の自由を獲得したときだったはずである。自然科学の例だが、自分の立っているこの大地は不動なのだというこだわりがある限り、地球が太陽のまわりをまわっているという地動説は納得できない。数学も同様で、自由な精神が新しい真埋を受け入れるのである。
 自由に考えるというのは、2+3を6にしようなどということではない。人間は自分で気づかぬうちに何かにこだわっているものである。こだわりが真理を拒んでいる。そういう見えない束縛から精神を解放するのが自由に考えるということの意味である。それは決して容易なことではない。地動説がなかなか受け入れられなかったのと同じようなことは数学史にも見られる。虚数、非ユークリッド幾何学、無限小、集合捨などが考え出されたころ、専門家の中にもそれを認めようとしない人々があった。
 自由を獲得するのが容易でないという事実について、もう1つわかりやすい例をあげよう。ゼロという数は、発見以来千数百年前を経た現在では、よく知られている。しかし、番号はたいてい一番から始まる。0番から始めるのが定着していた文明は中米のマヤだけだろうと思われる。番号をつけて数えるときに1番から始めるよりも0番から始める方が合理的なのだが、1番から始めることにわれわれはあまりに慣れてしまって、数学者でさえそれを容易に捨てられないのである。別に私はすべて0番から始めよと主張しているのではない。ただ、われわれが日常的に慣れている考え方にとらわれない自由な心で新しいものを受け入れるのがいかにむずかしいか、具体例で示したまでである。
 ニュートンはリンゴが落ちるのを見て重力(万有引力)の法則を発見したと、よく知られている。しかし、ニュートンが偉大なのは「リンゴはなぜ落ちるか」も「月はなぜ落ちてこないか」も同じ法則によって説明したところにあると思う。ニュートンは重力の法則という物理法則を発見しただけでなくて、その重力の法則に従って物体がどように動くかを論ずるために数学の新しい理論を創り出し、それを用いて天体の運動などを説明したのである。「無限小」という新しい概念を扱う微分・積分の理論は、まさにニュートンの自由な精神によって発見されたものなのである。
 さて、日常的な経験をはるかに超えた世界を認識できる、そういう理性と感性とが人間には備わっている。そのことに気づかせ、考える能力を自由にはたらかせる喜びをともに味わう、そういう数学教育を私は願っている。しかし、いまの学校教育は技術に偏りすぎて、考える喜びを感じさせることがあまりにも少ないのではないだろうか。そういう教育のせいか数学は技術だと思いこんでいる人が多い。
 ニュートンが重力の法則を捨ずる目的で微分・積分を考え出したように、近代の科学や技術には数学の応用が欠かせない。しかし、応用がいかに重要であろうとも、数学は応用のためにだけあるのではない。日本数学会編集の「数学事典」にも、「(ギリシャにおける)実用を超えた学問である数学の創始は人類文化史上最大の事件の1つで、以後現在までの学問、文化の発展に本質的な影響を与えた」と述べられている。

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いわゆる〝湾岸戦争〟についてのアピール。
アメリカは、中東から手をひけ!

 1月17日、街には号外が飛びかい「とうとう始まりましたな」といった会話がそこらじゅうでなされました。テレビは特別番組を編成し、新聞には大きな活字。しかし、どの報道を見聞きしても、納得できないことがあります。〔1月21日付分チラシ/冒頭〕
 「本日夜明け、地上戦を開始せよとの命令を下した」とのブッシュ大統領の記者会見が、たったいま行なわれました。彼は例の「国連決議」を繰り返すばかりで、あらゆる戦争回避の機会を跳りつづけ、この事態を招き寄せました。ここまでくると、アメリカが自らの世界戦略に則ってこの戦争を進めていることは、誰の目にも明らかです。彼らは戦争がやりたくてしょうがないのです。〔2月24日付分チラシ/冒頭。以下の文章は両者に共通〕
 
 誰もが(土井たか子社会党委員長までも?! この戦争を起こさないために、イラクのフセイン大統領に対して、いわばアメリカに屈服して撤退せよと迫っています。アメリ力に支配された国連決議を盾に、撤退せよと……。さらにアメリカがイラクに対して爆撃を行なってから、さも当然であるかのように「成果があった」の、「なかった」のとマスコミ総出で、騒いでいます。しかし……。
 なぜ、アメリカは遠い中東まで、あれだけたくさんの兵隊や武器を送り込むのでしょう。なぜ、アメリカはあれだけの爆撃をしても、とがめられるどころか、そのハイテクぶりをまるでテレビゲームでも見るように、報道され、話題にされるのでしょう。
 アメリカはいつだって世界の盟主になろうとして、他国や他民族間の問題に割って入ります。アメリカは中東を我が支配下に置き、石油を安く手に入れるために、当然の権利でもあるかのように中東での武力行使を進めています。
 一方、中東各国の一握りの王族や特権支配層は、自国での自らの地位をよりゆるぎないものにするために、アメリカの中東支配のための戦略にうまくのり、利害を一にしています。支配者同士は国境を越えて手を結んでいるというわけです。
 アメリカのプッシュ大統領は1月11日、米議会による対イラク軍事力行使承認決議案の採択を、12日に控えて行なった多数派工作で、『決議案への投票は米国が冷戦後の世界秩序形成を主導できるかどうかをかけた「歴史的なもの」だと強調』したと伝えられています。(1月12日『朝日新間』)このことを考えても、フセイン大統領に一方的に撤退を迫り、「制裁」を加えることには納得がいきません。また、日本政府は〝湾岸協力〟を当然のことだとして、自衛隊派兵や増税などということまで言っています。
 中東アラプ地域の問題は、アラブ人の手で解決するのが基本だと思います。いわゆる西側諸国が勝手に国境線を引き分断支配してきたために、一見複雑な様相を呈していますが、実は〝分断統治〟がその原因を作ってきたのではないでしょうか。複雑そうに見えることの原因を指して、無責任にも「あれは宗教が絡んでいるから……」などとしたり顔で言う人もいますが、歴史的事実を自分の目で確かめる努力をしたいものです。歴史的過程を考えれば、イラクのクウェート侵攻を口実にしたアメリカの武力介入を正当化し認めることはできません。
 ベトナム戦争もアメリカが敗北して、はじめてその不当性が一般的にも語られるようになりましたが、当初は〝話の分からない残忍な「ベトコン」を、自由と正義の国アメリカの軍隊が征伐に行く〟といった論調が流布していました。このかんのマスコミの報道内容を見て、ベトナム戦争が始まった当時のことを思い出しました。(遠藤京子)

【追記】アメリカのイラクヘの空爆直後、日本のマスコミのあまりの〝アメリカ大本営〟報道に黙っていられなくなり、ハガキやチラシにして配布した文章です。
 いわゆる〝アメリカ大勝利後〟のブッシュの顔を見ましたか。傲慢で鬼のような笑いを浮かべています。それに見るからに好戦的なシュワルッコフ。挙句の果てに星条旗にキスしたり、オープンカーで勝利にわく、いかにもお金持ちの面持ちのクウェート人たち。貧富の差というものをまざまざと見せつけられました。
 また、女性兵士がことさら話題にされ——自分の赤ん坊のバッジをヘルメットに付けたおばさん兵士の写真がどのマスメディアにも登場した——不愉快でした。前号の《ふりかけ通信》でふれた「私にも乎等に危険をください」の世界です。男性職場への女性の進出の一環として語られる女性兵士の問題では、今日の女性差別撤廃運動の質も問われねばなりません。マスコミはあれもこれも一緒にして、〝女性の時代〟なんて言ってしまうのですから。

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『蜚語』第11号 p31

学校にまにあわなーい。①

「君が代・日の丸」の季節となって、それでなくとも憂鬱な学校とのかかわりが、ますます憂鬱になるときだ。昨年、いやいやながら地元の小学校に入学させた子が身近にいるので、長い学校との〝おつきあい〟がはじまった。くだんの学校は昨年の入学式では区内で唯一「君が代」斉唱をやらなかったために、教育委員会から圧力を受けたとの噂。校長も教頭も新任だったので3月中に決めた式次第通りやるようにと、教師たちが奮闘。
 私はあらかじめ、校長に「やるのかどうか、やるなら欠席する」と申し入れをしておいたので、入学式終了後、教頭が声をかけてきた。「どうでしたか、お母さん」と猫撫で声。こちらは、校長が「今年はともかく、来年はやらせてもらいます」と啖呵を切ったと聞いていたので「まあ、和やかな雰囲気で良かったですね。来年もこのようにやってくださいね」と言ったら、思わぬ返事。「いやー、時世ですから」と。これではまるで戦前の巷の挨拶。思わず戦争とファシズムの時代を身近に感じてしまった。
 今年の卒業式は……と事前に体育館を覗いたら、「式次第」には「君が代」斉唱があった。入学式も同様。教師らは全員反対したそうだが……。前出の子の卒業式までまだ5年あるから、そこで「君が代」が斉唱されるとき1人で着席している程度の抗議しかできないという状態はなんとか抜け出たい。かといって、日常的に親たちとつきあう機会の少ない「働く母親」は、こういうとき困るんだな。
 今年の入学式。 2人の母親が、私が配った「『日の丸・君が代』について一緒に考えませんか」とのビラを、「これはいりません」と返してよこした。新入学児全員で62人だから、この確率は高いですよ。
 さて、そんなこんなで入学するとまず来るのが「保健調査」。これが凄いんだ。質問項目が100項目以上ある。持病についてなどのほか、日常の習慣や好き嫌い、癖にいたるまで、およそ人間の行為すぺてを並べたて、⚪︎×を付けるようになっている。これでは子どもどころか、周囲のおとなの生活も含めてプライバシーの侵害も甚だしい。こんなことで、あらかじめ偏見を持たれてはたまらない。しかたないので無記入で手紙を添えて出した。

「ずいぶんいろいろ考えましたが、およそ次のような理由で、このような調査には疑問があり、調査用紙の記入は致しませんので、悪しからずご了承ください。
 すべての項目について、神経質な親はあてはまると思い、そうでない親はあてはまらないと思いそれによって判断される子どもはたいへん迷惑します。また、人間は、とりわけ子どもは、そのときどきの体調や気分や環境によってすごく変わります。その毎日の状態をこそ、周りのおとなが見てやらなければならないのに、一片の紙切れに書いた調査項目で判断することなどできないのではないでしょうか。
 さらに、子どもを一人の人間として、その人格を尊重するのならば、他者が勝手にこの子はどうだこうだと言えるでしょうか。それは、子どもの人権を侵すことにならないでしょうか。私はこの調査の対象とされている1人の子どもに対する1人の他者として、とてもこのようなものに⚪︎だの×だのをつけることはできません。
 このような「健康調査」のありかたを根本的に考え直していただきたいと思います」

子どもの新入学時に学校へ提出した手紙

 こんなふうに、いちいち気にかかることばかりやるのが学校というものだ。

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「ふりかけ通信」第11号

『蜚語』第11号 p33


『蜚語』第11号 p34

編集後記

『蜚語』第11号 表3

【2023年の編集後記】

▶︎つい最近、Facebookへの投稿で、国鉄労働組合の組合員数が全国合わせても、5000人を下回っていて、その殆どが60歳代以降だということを知った。1987年国鉄が民営化されるに至る過程で、多くの人びとは、今日のような政治社会が築かれていく家庭の1つだとは思いもせずに、当事者以外のところから大きな反対運動は起きなかった。むしろストライキなどへの反発から、民営化を歓迎したのではないだろうか。
▶︎60年代から70年代にかけてのさまざまな革新的社会改革が、その後の50年ほどで滅茶苦茶になって、すでに、国の体をなしていない現状。
▶︎1990年代に発行したこの冊子を読みながら、現在に至る問題があらゆるところにあったのだなと、あらためて確認する。
▶︎東芝府中の上野さんを守る会。節目の集会で佐高信氏に講演を依頼した。その講演で笑いを取るためにか、女性差別発言があり参加者がどっと笑った。一緒に参加した私を含む3名は、非常に不快を感じて、次の例会の時に問題提起をし、一緒に参加した女性が佐高氏に宛てた手紙も持参した。しかし、手紙は握りつぶされ、性差別であるとの指摘は佐高氏に失礼だと、他のメンバーから言われたので、それ以来、守る会へ行くことはなくなった。それまで、かなり頻繁に関わり、当該友中心メンバーとも、個人的にも親しくなっていたので、残念な思いで絶縁した。
▶︎他者を貶める物言いで笑いを取ろうとする悪しき「テクニック」が、その後も蔓延っていて、このごろでは、SNSでも変な人気を博しているのは、なんとも悍ましい社会だ。
▶︎沖電気の田中哲朗さん。その後、オーロラ自由アトリエで月1で開催していた「オーロラオーロラ自由会議」と名付けた読者の集いで、ギターの弾き語りをお願いした。自作の歌と「アルハンブラの思い出」のギター演奏を聞かせていただいた。
▶︎『日本人の黒人観』を書いたジョン・G・ラッセル氏は、大衆文化の表現に現れる差別性について言及してきている。その点では、女性差別もまた、より広範に、さらに、誰もが差別とは思わないような表現が、あたりまえにある。
▶︎同性婚の問題は、婚姻届に関係なく、未届者に対する税制やその他さまざまな不利益をなくすことが重要だと思うのだけれども、そういう方向に事は運んでいない。
▶︎子どもが生まれても、頑張って未届だったけど、マンションを買うのにローンが組めないので、やむなく婚姻届を出したという友人がいた。夫は零細企業で給料が安く、妻が公務員だったので共済組合のローンを使ったのだけど、未届では出来なかったらしい。
▶︎冒頭の「人とし生きるために」という歌は、東京交通労働組合(東交)の高橋洋子さんがよく歌ってくれた。全体の歌詞は以下の通り。もう、歌える人は数少ないと思う。
地の底から 地の底から 怒りが 燃え上がる
この切羽で この切羽で 仲間が息絶えた
金のためには 人の生命も奪い去る 奴らに怒りが燃える
 
血にまみれた 血にまみれた 写真が落ちていた
学生帽の ランドセルの 顔が笑っていた
この子にすべての 望みたくして働いてた 友の姿がうかぶ

命かけて 命かけて きずきあげた職場
この職場に 闘いの火を 燃やし続けよう
人とし 生きるため 子らの未来のためにこそ
搾取の鎖を 絶ち切ろう

人とし 生きるため 子らの未来のためにこそ
搾取の鎖を 絶ち切ろう


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