盟友の死
2022年のコメント
彼の死は原発が爆発する前の出来事でしたが、2011年3月以降、東京方面に暮らす何人もの友人・知人たちが、突然死しました。まだまだ、さまざまに活躍する人びとでした。
私は原発事故の後、身体にいろいろな反応が現れ、このままでは危ないと感じたので、身辺を整理し、2013年3月に沖縄に移住しました。
原発事故は計り知れない被害をもたらしました。にも拘らす、この国はエネルギー政策を改めようとはしません。この狭い日本列島を取り囲むように原発があることに、多くの人びとがもっと危機感を持ってほしいです。
タイトルの写真は、2012年4月の東京での私の出で立ちです。被曝を避けるためにマスクは常にしていました。帽子も欠かさずでした。当時はマスクをして出ると、近所の人に「あら、お風邪召しました?」と声をかけられました。
2011年2月4日
彼を葬送る秋の一日、晴れた空に、とんびが舞っていました。
今から40年ほど前の4月、東京のとある大学の学生会執行部の部屋に、彼は現れました。私は学生会執行委員ーの一人で、書記長ということになっていました。
入学したての彼は、たった1歳しか年下にすぎなかったのに、かわいい後輩という印象でしたが、ともに学生会の活動を担いはじめると、先輩・後輩もない同志でした。
私が入学した時点で、すでに、学生会執行部と大学側は、もめていました。大学側は学生会規約の、「唯一の学生組織である」の「唯一」と、「全学生によって構成される」の「全」を削除しろと言ってきました。削除しなければ、「学生会」を認めない。したがって、授業料と一緒に学校が学生から徴収した「学生会費」を、学生会執行部に渡さないと言ってきました。学生会費は、大学が徴収を代行したにずぎず、もともと学生会に支払われたものにもかかわらずです。
学生会費がなければ、サークル活動などに支障を来します。
私は、そもそも「学生会」は学生の総意によって組織されるもので、学校側が認めるとか、認めないとかと言う筋合いのものではないと考えていました。私は、大学側の言うことがあまりにおかしいと思ったので、学生大会で意見を述べました。そのことがきっかけとなり一年先輩の執行委員から誘われ、私の学生会執行部での活動が始まったのです。
その後、今にして思えばなぜ、あのようなことに学校当局がこだわったのかと、不可解な事柄も、たくさんありました。たとえば、学生会執行部が立てる「立て看板」を、学校側はすぐに撤去しました。それに対して私たちは、「表現の自由」を奪う行為であると訴える立て看板を立てます。それも、すぐに撤去されてしまいます。仕方がないので、交替で寝ずの番をしたこともあります。
クラス討論を組織したり、社会的・政治的課題にも関わったり、忙しい毎日を、ともに過ごしました。
学生は、スポーツ関係のサークルを中心に「規約問題」なんかどうでもいい、学校の言うとおりにして、早く学生会費を手にしようというものと、筋を通すべきとするものとが対立し、混乱状態でした。そして、大学側は、学生会執行部を無視して、各サークルに直接「サークル費」を支給するという行為に出ました。また、「空手部」などを使って、暴力的に学生会執行部学生の追い出しにのりだし、同時に、それぞれの親宛に、学生大会が「暴力沙汰」になった云々と呼び出し状を送ったのです。「暴力行為」を行なったのは、空手部員たちであったにも関わらずです。
そのおかげで、地方から来ている学生は、仕送りを止められ、親元から通ってきている学生は、家を出ることになり、それぞれアルバイトに精を出さざるを得なくなりました。私も、東京近郊から通学していた彼も、家を出ました。しかも、空手部らの暴力はエスカレートし、暴力的に校内から追い出され、校内に入るのは命がけというような状況だとの情報も乱れ飛んでいました。
しばらく様子を見ようということで、校内に入れないまま、私たちの学生会活動は、崩壊していきました。
田舎に帰ってしまった人、アルバイト生活が中心となった人……、みんな、ばらばらとなっていきました。
私は、再度学校に戻ろうと授業料を支払いに行きましたが、学生部長に呼び出され、「学校に逆らわないという誓約書を書かなければ授業料を受け取らない」と言われました。私は、ドアを蹴って学生部長室を出てきました。背中に「それで本当にいいのかね-」という学生部長の声を聞きながら……。そして、なんと私は「授業料未納」で、退学処分となったのです。
私たちより一学年下の彼は、結局私たちと一緒に自主退学し、その後、高校時代からつきあいのあった彼女と結婚し、学生時代にはじめたアルバイトが、本職となって、病気になるまで続けて来ました。
一年ほど前、地方に暮らす別の仲間が亡くなったとの連絡を受け、昔の仲間にはいつでも会えると思っていた私は大変ショックを受けました。
急遽、東京近郊の何人かに連絡を取りました。とくに彼は、学生時代にやっていたアスベストの仕事が本業になっていたので、心配でした。
そして、直接アスベストとは関係ないとしても、彼が癌を患っていることを知り、玄米菜食を奨めたり、代替医療の情報を伝えました。およそ月に1度、彼を励ますつもりで数人で集まることにしてきました。
夏には、長野県に一泊旅行にも行きました。
私たちは同じ志を持って活動したとはいえ、ほんの1年間ほどの短いつきあいでした。でも、学校と関係がなくなってからのお互いの生活の方がずっと長いにもかかわらず、まるで、昨日まで一緒に活動していたかのような感情を、お互い同士が持っていました。
当時の呼び名で呼び合い、それぞれの人生を変えた短い間の出来事を、思い出していました。
彼は玄米食を開始し、家族の人たちも、そうしているようでした。
彼を見送るために、私を含めて4人の盟友が来ました。そして、彼の高校時代の同級生たちも来ました。私たちは、ともに彼を見送り、すぐにうち解けて、一緒に集合写真も撮りました。彼が引き合わせてくれたのです。
この一年近くの間に、少なくとも二人のまだまだ若い盟友が、先立ちました。