温かさは傍にも、きっと遠くにも。
こんにちは、くらげです。
自分で何かを選択することはとても難しいことだなと最近になって痛感しました。自由はとてもいいことだけど、少し不自由な方が安心してしまいます。頑固か真面目か様々なルールをそれなりに守ってきた私です。
今まで自分の進路を自分で決めてきたと思っていましたが、きっとうっすらと見えるレールを選択してきただけなのでしょう。
母は、私がやりたいことに一切何も言わない人でした。なので、志望校も大学、大学院進学も何も言われませんでした。勉強も部活も特に何も口出しはしませんでした。自分で選んだならそれでいいという人でした。
母のおかげで、私はやりたいことができて、学びたいことが学ぶことができていると思っています。今までの24年間、好きなことを選ばせてくれて本当に良かったと思います。
私は、自分が今まで選んだことに何も後悔はしていません。いや、もしかしたら後悔したことはあるけど、忘れているだけなのかな。でも、後悔はないです。
人生で何が一番いい選択だったかは今はまだわからないけど、全てが今の自分なのです。小さなことも大きなことも自分の選択で、その時の自分のベストやその時の自分にとって最大限のやさしさだったのだと思います。
努力だけでどうにもならないこと、それでも自分は天才ではないため努力をし続けること、あげてしまえばきりがない現実。自分が思い描いていた人生だったのかも分からなくなってしまいました。努力が必ず報われるとは思わないけど、何かを得ることはできて、いつかどこか思いもよらないところで役に立つのではないかと信じています。よく大人が言う「結果より家庭が大事」ということを少しは理解できるようになったような気がします。
しんどいことも辛いことも人並みにあったと信じています。それのせいで「こうしなければよかった」「こんな人生なんて嫌だ」なんてことは考えたくない。そう思った瞬間、その時に頑張っていた自分がとてもかわいそうに見えてしまうのです。見えない先のことに不安になりながらも手探りで進んだはずの過去の私を否定してしまうような気がしてしまうのです。
生きている今が全てで、過去にも未来にもすがりたくないのです。それでも、悪意のある言葉とか、水面下の言葉を言いたげな視線とかを自覚すると途端に過去に引き戻されたような気がしてしまう。無関係な人をあの頃の悪意ある人たちを投影してしまうのです。過去は過去だと割り切る必要があるのに、いつまでも私の心の中に居座り続けているのです。「出ていけ」ということもできない臆病な子供に戻ってしまう。
しかし同時に今の私を大事にしてくれる人もいることは事実で。それでも、私が『私』を大事にすることができなくて。
ほんの少しの成功体験も覚えておくことができず、失敗ばかりが濃く残ってしまうようで。きっとうまくいったことだってあったはずなのに、いざ『あなたの成功体験は?』と聞かれると答えに困ってしまうような。
感情がないわけでもなく、豊かな方だと思うけど、『怒ったこと』や『悲しかったこと』もぱっと話せるほどすぐに思い出せない。私の中でできている理想の人物像の中に怒りや悲しみはきっとないのかもしれない。知らず知らずに排除してしまっていて、全てを『まあいっか、仕方がない』と笑ってやり過ごしているうちに自分が何に痛みを感じて、何を許すことができないのかがわからなくなってしまったような。
さっきも言ったように、過去にも未来にもすがりたくない、今いるのは現在で、あやふやな未来に期待もしたくない。でも、過去は紛れもない事実で、不確定なことが不安な私はどちらかというと過去にすがってしまうのでしょう。
わたしというのは確かに存在しているはずなのに、その存在を証明するものはあまりにもフワフワしていて実態がない。何かの枠を求めてしまうようなそうでもないような。
そろそろ進路を考える時期になりました。早いものです。あと半年くらいで私の大学院生活が終わると思うとあっという間でした。終われればの話ですけど。
色々な温かさに触れている一方、冷たい現実にも向き合わないといけないものです。傍にも、遠くにもある温かさをもって頑張ります。
最後までありがとうございました。ではまた。