”陰キャ”と”陽キャ”
私の嫌いな日本語に、”陰キャ”と”陽キャ”がある。これらの言葉の由来についてさっと調べてみたところ、2000年代頃から急激に普及したインターネットや、アニメなどのサブカルチャーらしい。
由来はさておき、何故私がこれらの言葉を好まないかというと、それぞれの言葉にネガティブなイメージがあるからである。”陽キャ”の場合は、大勢でわいわい騒ぐことが好きな人たちの集まり、”陰キャ”は暗くてコミュニケーションが苦手で常に部屋の隅っこにいるタイプ、といったような感じか。
私は、日本では最近”繊細さん”と呼ばれるHighly Sensitive Person(HSP)であるが、中でも刺激を求める傾向があるものの内向的な特徴をもつHSS型HSPである。なので”陽キャ”と”陰キャ”の両方を兼ね備えると言っても良い。
そもそも、”陽キャ”や”陰キャ”は何のために人々は使うのか。私は、人々は、自分が属さないほうのグループを揶揄したり、不快感を示すために使うように思えてならない。つまり、グループ化することで、自分のほうが他者よりも優れている、自分の属さないグループは異質、と思うことで安心したいだけなのではないか。必ずしもこうした言葉を使う人が全員こういった意図をもつとは限らないが、少なかならずは当てはまっていると思う。
例えば、「あいつは”陰キャ”だから仲間外れにしよう」、と”陽キャ”グループがクラスの”陰キャ”をドッジボールに誘わない、といった状況は容易に想像できるし、私の小学生時代を思い返せば、こうしたことは悲しいことに日常茶飯事に起きていた。反対に、”陰キャ”が、「ほんと”陽キャ”はうるさくて周りを考えない」と文句を言っている状況もある。これを読んでいただいているみなさんも、少なくとも1度は人生においてこうした場面に出くわしたことがあるのではないか。
「言葉は武器になる」、というが、人の特徴を示す言葉はより一層そうした側面が強い。相手の性格のみならず、時には人格までを否定することに繋がりかねないからだ。
日本でもようやく”繊細さん”の理解が広まり、深まりつつある今だからこそ、”陰キャ”、”陽キャ”といった人の特徴をネガティブに表す言葉を捨てさり、”陰キャ”だったら、”人の心が読める”、”洞察力が鋭い”、”陽キャ”であれば”ムードメーカー”、”明るい”、といったように、少しずつ言葉を選びながら変えていけないだろうか(もちろん、”陽キャ”の人が人の心が読めない、”陰キャ”の人はムードメーカーではない、と言っているのではない)。
この世界には、多種多様な性格や性質、特徴をもった人々がいるから成り立っている。その違いを否定し合うのは悲しすぎないだろうか。
私一人では人口1億人を超える日本人の言葉の流行を変えることはできない。これを読んでくださったみなさんからも、是非今日から言葉選びに少しでも慎重になっていただけたら嬉しい。無意識に、他者を傷つけないために。