感性が鈍ると数字に惑わされる
感性とは何か、ここでは「誰にも影響されるべきではない自分自身の感じ方受け止め方・そしてその自分自身の守り方」として定義しておこう。
つまり、自分自身の感性は自分自身で守るべきである。ということが言いたい。
↑ たまに自分でもリツイートするくらい自分にも言い聞かせている言葉。
茨木のり子氏のこの詩は胸に突き刺さります。
「自分の感受性くらい」
茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
(・・・)
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
引用:「茨木のり子詩集 谷川俊太郎選 岩波文庫 P171
私は普段、育児や家事をし、通信制の美大で勉強しながら作家活動もしている。
ほぼ生活のすべての活動を「家」のなかで行っているため、プロフィールの肩書の一番最初にはいつも「家で作るひと」と書いている。
さて、そんな密封された空間にいると考えていること・作り出すものがどんどん濃縮されていくわけで、独創性と一人よがりは常に背中合わせなのである。
そんなとき私はどうするか、本を読む・映画を観る。誰かのSNSを見に行く。つまりあえて、「自分とは違う考えを持っているなにがしかの媒体」に触れに行くのだ。
そこで感じる「違和感」って、昨今もてはやされている「共感」とは正反対のものだ。
「違和感」は心地が悪い。それがいいのだ。
そうやって改めて自分が普段「心地よい」と感じているものについて深く知ることができるんだと、そう思っている。
instagramも見にいく。「この写真は好き」「きらい」とやっていく。
それはまるでAIに機械学習させているようだ。
というか、AIは人間の脳を模倣し出来た代物である。
最近はinstagramも「いいね」数を表示させない仕組みになっている。
「いいね」の数が多いと、ヒトはその画像が「良いもの」と感じてしまうバグをAIは学んだんじゃないだろうか。
それでも自分のした投稿のインサイトは見ることができる。
どういった投稿がいいねされやすいのか、毎回チェックして自分なりに分析している。
自作サイトや他のサイトもアナリティクスをつけて、数字を見ている。
もちろん、すべての工程を一人で行っているため、とても小さな数字で、下手したら「サンプルにならない」と言われてしまいそうなくらい小さくて、「こんなんだったら、やらない方がいいかも…」と思ってしまうことは何度でもあった。
「作り続けること」と「作ったものを誰かに知ってもらう行為」は別物である。それ自体に価値があるのだ。
だからあまり数字ばかりに囚われてしまってはいけない。
大事なのは、繰り返しになるが、「作ること」や「その作ったものをだれかに伝えたこと」であって、「たくさんの人の耳目を集めた」という「結果」ではないのだ。
小さな小さなその数字の中に、暖かい目で見てくれている人がいるのである。
だから、数字に揺さぶられちゃいけない。
これは自分を守るためである。
2020年11月13日
作品の引用部分を変更。