瞑想/聖なるキャンプ
高原へ
「あまりに暑いから、涼しい高原でキャンプしたいね」
友人とそんな話になった。ソロキャンプが多いわたしだが、今回はいわゆるソロデュオで行こうと提案。それぞれテントを張って、タープは一つというスタイルだ。
東京から近い山梨県のキャンプ場での一日目のつぶやきがこちら。
奇跡のような
翌朝、テントから出てきた友人につぶやきを見せると、「満天の星、というのはちょっと違ったんじゃない?」と笑った。わたしは「まぁ、そうだったね・・・」と言って、神秘的ともいえるような昨夜の空を思った。
たしかに空の半分には雲があった。東側の山の端には黒い雲がかかって、そこでものすごい雷が鳴り響き、稲光が15分も続いているのに、なんと空の半分は晴れて星が輝いていたのだ。
つぶやきの写真は大気が不安定になった夕暮れ時の雲を撮ったもので、コメントを書いて投稿したのは夜九時頃、すでに雨は止んで友人は早々に自分のテントに入っていた。
タープの下で、わたしは一人キャンプチェアに身をまかせ、突然の雨と、大きな虹のアーチ、轟く雷鳴、光る稲妻、輝く星、この神々しい奇跡のような競演の余韻にひたっていた。
そして、「そろそろテントに入って瞑想しよう」と立ち上がって、タープから出ようとしたそのとき、わたしの頭のてっぺんに、すーっと一筋の冷たい水が降ってきた。どうやら先ほどの雨でタープに溜まっていた雨水が、わたしが動いた拍子に流れてきたようだ。
ひゃー! びっくりした~
水の量はそれほど多くなく、わたしの頭頂はひんやりと気持ちよく冷たくなった。
あれ? なんかイニシエーション(灌頂)みたい・・・
まさかね、滑稽な姿を友人に見られてなくてよかった。
そして、テントに入ると疲れていたのかすぐに眠ってしまった。
瞑想に求めるもの
話は変わるが、このキャンプに行く直前、わたしは自分が瞑想になにを求めているのかを考えていた。
ある友人の死の前後から、勝手にクンダリニーのプロセスが進んで、瞑想すると気がザーっと上昇して頭部に集まって抜けていきそうになったり、歓喜状態に入りそうになったりしていた。そのような激しいクンダリニー現象が起こると、わたしは「もう、そういうことは望んでいない」と思って瞑想をやめる。自分でもちょっと意味がわからなかった。そこで、自分自身に問いかけてみた。
では、なにを求めてお前は瞑想するのか。
わたしは「オウムとクンダリニー」とその後の一連の記事を通じて、さまざまな体験を記述してきた。そのなかで一つだけ追体験したいと思うものがある。それを「眠りの智慧」と呼んでこう書いている。
この頃、わたしは精神科を受診しようかと考えるほど、ひどい希死念慮に襲われていた。この精神的危機のときに経験した「深い眠りのなかにものすごくクリアな意識がある」ことは、危機的状況を抜け出すとともに意識できなくなったのだが、「なにを求めて瞑想するのか」と自分に問いかけたとき、すぐに「眠りの智慧」のことを思い出して、過去に書いた記事を読み直してみた。
わたしが「眠りの智慧」と呼んでいるものはなんだろう。
「恐ろしいほどのエネルギーの渦」というイメージはなんだろう・・・。
神、叡智、真理、真我、空。
そんな言葉が浮かび、次にある一節を思い出した。
「真理の源泉であられるシヴァ大神の叡智へ到達しますように」※
皮膚一枚隔てた
キャンプ二日目は、朝から快晴でテントもからりと乾いた。遅めの朝食をとって、正午には無事に撤収を終えて山を下りた。中央道を東京方面に向かって運転しながら、わたしは何度も「すごくいいキャンプだった」と口にしていた。八王子インターを過ぎて街に入った頃、わたしがまた「すごくいいキャンプだったなぁ」とつぶやくと、助手席の友人が「どんなところが良かったの?」と聞いてきた。
「そりゃあ、高原の広い空と、爽やかな風、もちろんあの突然の雨と雷と、虹と星、良かったよね。あと、実は話していなかったけどさ・・・」
そう言って、昨夜友人がテントに入ったあと、わたしの頭頂に偶然雨水がかかった話をした。
「ちょっと不思議な感じでね。一瞬、イニシエーション? 祝福? と思ったんだけど、もし誰かに見られていたら、笑われちゃうようなマヌケな姿かもしれないし、見られなくてよかったなーって」
友人は「それは、水元素の浄化なのかシヴァ神の祝福なのか、どっちなんだろうねえ」と言った。
なんでも「神の祝福だ!」とこじつけるのは好きじゃないけど・・・と思いながら、わたしは「やっぱりそれは、後者だと思いたいところだけどねぇ」と控えめに言った瞬間、それはあらわれた。
「あ、あのトラック見て・・・シバシンって書いてある!」
「ほんとだー!」
わたしが運転する車の右側を白いトラックがすーっと通り過ぎて行き、その荷台の後部には「シバシン」という黒い文字があったのだ。
「こんなことってあるんだねぇ」友人はすごい偶然を見たというような歓びの声をあげた。わたしも同調して「すごい偶然・・・」と言ったかもしれないが、内面的には少し違っていた。昨夜、頭頂に感じたひんやりした感覚がよみがえっていた。これは現実には確かにすごい偶然には違いないが、同時に、偶然でもなんでもない。わたしの皮膚一枚隔てた、すぐそこに神のあることを、まさに皮膚感覚で触れている。
このキャンプに来る直前、わたしは戸惑っていた。「わたしはだれか」というラマナ・マハルシの瞑想をすると、激しいクンダリ―のプロセスが起こってくる。わたしのクンダリニーの覚醒はオウム真理教で麻原教祖によってもたらされたものだ。そして、ラマナ・マハルシ、麻原彰晃、どちらもシヴァ神を篤く信仰していた。
「ほら、やっぱりあるんだね~」
友人が差し出したスマホの画面には「株式会社シバシン商会」のトラックの画像があった。「へー」と言って、わたしは内心苦笑しながら思った。
「なんでもネットで検索すればすぐに知ることができる時代やねぇ。皮膚一枚隔てた神を知るまでに、わたし本当にボロボロになって、人生の半分以上を費やしたというのに・・・」
※オウム真理教の歌『賛歌』の一節。
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