Mitsuki takayama
<更新中>2016年頃から修行、信仰、出家生活について書いたエッセイ。ときどきの話題などなど。
霊峰・富士、その宗教性。弥勒信仰、山の宗教(修験道)、富士講。
<全9話>オウム真理教の宗教観と教義に基づいてオウム真理教事件を考える。脱会して最初に書いたオウム真理教についての考察。暗闇の中、手探り状態だった頃の格闘の記録として残しておく。
キャンプや旅の記録です。
<更新中>オウムから見えた日本社会。「カルト」あるいは「破壊的カルト」について。写真はオウム真理教東京本部(青山道場)跡(2018年6月)。現在は駐車場になっている。
オウム真理教での体験を綴った「オウムとクンダリニー」を章ごとにマガジンにまとめています。 私は、平成元年(1989)にオウム真理教に出家してから、教団の出版活動を担う編集部に三年、その後、東京本部道場で三年ほど信徒指導を担当しました。 地下鉄サリン事件(1995)を経て、2006年末にオウム(アレフ)を脱会したのですが、教団がなぜあんな事件を起こしたのか理解に苦しみ、やめてからもずっと考えさせられてきました。そして、「オウム真理教とは何だったのか」ということを理解するため
昨日見た仏像。高山市の図書館にて『岐阜県の円空仏』(岐阜郷土出版社/写真・後藤英夫)で確認する。
あるお寺へ行った。ずいぶん前から無人になっている。そこの仏像は地域の方が管理していて、事前に連絡すれば拝観できる。それほど期待はしていなかったが、近いこともあり行って見た。なんというのだろう、感動とも少し違う、見た瞬間「蒙が啓かれた」という不思議な感覚。外に出たら彩雲が出ていた。
高原へ 「あまりに暑いから、涼しい高原でキャンプしたいね」 友人とそんな話になった。ソロキャンプが多いわたしだが、今回はいわゆるソロデュオで行こうと提案。それぞれテントを張って、タープは一つというスタイルだ。 東京から近い山梨県のキャンプ場での一日目のつぶやきがこちら。 奇跡のような 翌朝、テントから出てきた友人につぶやきを見せると、「満天の星、というのはちょっと違ったんじゃない?」と笑った。わたしは「まぁ、そうだったね・・・」と言って、神秘的ともいえるような昨夜の
猛暑の街から、高原のキャンプ場へ。焚き火をはじめたらいきなり激しい雨。遠くに雷が光る。そして雨が上がり大きな虹‼️ やがて満天の星⭐️ 雨、雷、虹、星。 すごーく贅沢なキャンプ。
標高1500。久しぶりのテント泊。雨音を聞きながら、テントの中で独り。その雨もあがった模様。近くで鹿の鳴き声。星は見えるかな?
10年以上も前に見た夢の「失われた少女の物語」という言葉の意味が、わたしのなかで腑に落ちたと思ったら、先日、元気な少女が飛び込んでくる夢を見た。まるで失われた少女が帰ってきたみたいに。この子はこれからなにをするのかな? 遊びが大好きなことはまちがいないね!
四月初旬、友人が亡くなった。 かつてオウム真理教に出家していた同じ元信者だった。教団を出てからも、ときどき会って話をすることがあった。出家していた者が脱会すると、現世での生活をゼロから再建するところからはじまる。それぞれなんらかの精神的ダメージや喪失感を抱えながら、過去を封印して生きていかなくてはならない。数年たって生活が落ちついてからは、彼女とも近況をメール交換するくらいで、会うことも自然になくなったが、教団が崩壊していく大混乱のときを、同じ場所で肩を寄せ合うように過ごし
夢メモ。面白い夢を見た。わたしはベッドの上でとてもリラックスしてゴロゴロしていた。すると突然ベッドの横の壁から三歳くらいの女の子が転がり出てきた。アニメのポニョみたいな女の子。でんぐり返しをしながらケラケラ笑って、わたしのまわりで元気に遊んでいる。とにかくエネルギッシュな少女。
物語の終わるところ20年近く前のこと――オウム真理教を脱会した直後、わたしが夢に見た「失われた少女の物語」というイメージが、富士の「かぐや姫の物語」に通じるのではないかと気づいたことは、夢を見たわたしだけに意味のあることだ。読んでいる人にとっては、「なんのことやら・・・」ということだろう。 でも、長い時間を経て、この夢の意味が腑に落ちたことは、わたしの人生最大の謎が解けたようなものだった。富士山の祭神かぐや姫を通じて、江戸時代以前に日本の山岳に脈々と続いていた修行する仏教、
今年になって、わたしはよく瞑想をするようになった。どんな瞑想かというとマントラ瞑想だ。マントラはどれでもいいのだが、今一番スムーズに深い意識に入っていけるのは、「わたしはだれか」という問いかけをマントラを唱えるように続けていくこと。普通のマントラでは入っていけないような深い意識に、ごく短い時間でアプローチすることができる。ただ、この瞑想を進めるにあたっては「わたしはだれか」という瞑想のねらいを、ある程度理解しておく必要があるかもしれない。(ポイントは「わたし」という想念の根っ
先日、とても考えさせられる夢を見た。 夢といっても、普通の夢とは感じが違う。この現実と比べても、その空間は硬質で濃密でよりリアルだと感じられる。そんな夢だ。 **** 夕暮れどき、わたしは一軒のアパートの前にいる。 隣にはAさんがいる。 Aさんは「引っ越す」と言う。家の前に何か不思議な形のものがあるので、「これは何するの?」と聞くと「知らないんですか?」と。 それはコロナ禍で考案された「足洗い」らしい。 足洗いの少し高い位置には蛇口があった。その下の平たい丸い石
日本で一番高い山 本州のほぼ中心にあって 遠く離れた場所からでも 円錐形の同じ姿を望むことのできる独立峰 莫大なエネルギーを秘めた活火山 日本人は古来から神聖な霊山として畏れ、崇めてきた―― ***** 富士山が日本人の精神性の象徴だとするなら、その祭神がかぐや姫からコノハナサクヤヒメに代わっていったことは、当時の日本人の意識が大きく変わったことをあらわしているのではないか・・・そんなことをしばらく考えていた。 昇るかぐや姫・降りるコノハナサクヤヒメ かぐや姫は天に
東京の世田谷区松原にある扶桑教の富士塚を訪れたことから、わたしの「富士へ」の旅ははじまった。 密集した住宅地のなかにひっそりと立っていた小さな富士塚。その近くには、かつてオウム真理教の世田谷道場があった。そこはわたしのヨーガ修行のはじまりの地だった。それから無性に「富士山」を知りたくなって、何年ぶりかに中央高速を河口湖方面に向かった。 富士山の文化遺産を巡り、富士山と富士信仰に関する本を読み漁り、富士山を望むキャンプ場で焚火をしながらいろんなことを想った。そのなかのひとつ
前回の記事の最後に「修験道や富士講とオウム真理教に直接のつながりはないものの、修行法や宗教観にはたくさんの共通項があるようだ。そこには、富士山がもつ宗教性が関係しているのかもしれない」と書いた。 では、富士山の宗教性とはどういうものだろう。 『イメージシンボル事典』の「山」の項目には、次のようなことが書かれている。 ・天と地が触れあう場所としての世界軸。 ・「生命の木」the Tree of Life として。 ・天へ登るはしご。 ・大宇宙の脊柱。 ・啓示の下る場所。
歴史や文化に無知なわたしは、「富士山は有名な観光地」くらいに思っていたのだが、当然のことながら、調べてみると富士山は古来から「聖なる山」「霊山」「修行の場所」であった。 人穴洞窟周辺は、江戸時代に興隆した宗教「富士講」の開祖・角行という行者が修行していたところだ。その角行の系譜の六世にあたる食行身禄は、富士山で断食死(入定)している。 富士講の流れをくむ現在の扶桑教や実行教なども角行を開祖としている。ただし角行自身は教団などとは関係がなく、一人の行者だった。 人穴洞窟で