富士へ / epilogue
物語の終わるところ
20年近く前のこと――オウム真理教を脱会した直後、わたしが夢に見た「失われた少女の物語」というイメージが、富士の「かぐや姫の物語」に通じるのではないかと気づいたことは、夢を見たわたしだけに意味のあることだ。読んでいる人にとっては、「なんのことやら・・・」ということだろう。
でも、長い時間を経て、この夢の意味が腑に落ちたことは、わたしの人生最大の謎が解けたようなものだった。富士山の祭神かぐや姫を通じて、江戸時代以前に日本の山岳に脈々と続いていた修行する仏教、救済する仏教があったことを知って、やっとオウム真理教と日本の宗教世界がつながったからだ。そして同時に、なぜ、このわたしが、現代の日本社会に出現したオウム真理教という宗教を経験しなければならなかったのか、ぼんやりと、しかし確実につかんだ瞬間でもあった。
「あ・・・、そうか・・・」
そんな感じで、断片的だった人生の出来事の関連がベールを剥ぐように明らかになり、絵柄全体を俯瞰したような感覚があった。
それから、とらえた大きな絵柄をじわりじわりと意識化していった。「ああ、そういうことか」という何段階かの理解と納得があり、人生というものの大いなる不思議、完璧さ、意味に気づいていった。それに続いて、わたしという長い人生の物語が終わっていったようなのだ。この一文はわかりにくい表現だと思う。わかりやすく言ってしまうと違うような気もするが、わたしが見ていた人生という長い夢から覚めた、ということになるのだろうか。
きっと、この富士への旅は、中心へ、あらゆる物語の終わるところへの旅でもあったのだろう。
*****
富士山をめぐる旅の終わり
振り返って冠雪した富士の頂を見た
その瞬間
天からたくさんの魂が
頂上を通ってこの世界へ降りてくるのが見えた
ちょうど雲間から射した太陽の光に照らされ
山肌がひときわ輝いていたせいだろうか
白銀の光の玉がたくさん降りているように見える
わたしはそれを「たくさんの魂が降りている」と感じた
そして、降りてくる魂より
昇っていく
富士の中心から天へ帰っていく魂の数は
はるかに少なく
ほんのわずかであることが瞬時に見てとれた
なんともいえない哀しみが残った
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