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晩秋、修行

秋キャンプを楽しむはずだったのですが、自分でも意外な展開になって、修行をしています。

私はこれまで、たくさんの修行法を教えてもらいましたが、どんな修行も日常的にコツコツ積み上げていくのは苦手でした。長期のリトリート修行や、今振り返ってもかなり厳しいと思える極限の修行ならば、「よし、やるぞ!」って思えたのですけどね。

教団をやめてからは、あの事件をどう理解したらいいのか、そこが腑に落ちないまま修行はできないと思い込んでいました。今はなんだか憑き物が落ちたみたいに、「修行って、素晴らしいな」と思いながら坐っています。

私をよく知っている人はあっけにとられてこう言います。

「あなたから、その言葉を聞くとは・・・」

修行といっても内的エネルギーを強化するような激しいものでなく、供養の瞑想がしっくりきます。遥かな過去に現われたブッダ方、密教の完成者方、ヨーガの聖者方に供養していくのですが、その名を呼んで(唱えて)曼荼羅を意識すると、心が静まっていきます。

私自身びっくりしているこの変化、いったいどうしたんでしょうか?

親しい人の死がもう驚くことではなくなり、自分の「死」を意識する年齢になったということはあるでしょう。二十七年前のあの事件、そして十三人の処刑という、心の深層までひっくり返すようなショックが、ようやく鎮まってきたということもあるのかもしれません。

いずれにしても、病と老いと死は以前よりずっと身近な友人になって、気づいたら近くの席に穏やかに座っているようです。こうなってみると、あれこれ探しまわらなくても「今やりたい」と思える修行法を知っていることは、本当にありがたいことでした。

ヨーガ、仏教・密教の教え、修行法を教えてもらったことに感謝しながら、深まりゆく秋をしみじみ感じています。


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