「ゲド戦記」とオウムの物語
「ゲド戦記」再読
「ゲド戦記」をご存じだろうか。
スタジオ・ジブリのアニメーション作品ではなく、原作であるアーシュラ・K・ル=グインの長編ファンタジーだ。日本では1976年に岩波書店から、第1巻『影との闘い』と第2巻『こわれた腕環』が出版された。
私は学生の頃に読んだ。「ゲド戦記」という題名から冒険小説のつもりで読みはじめたのだが、普通の英雄譚とは少々趣が違って、読後のすかっとした爽快感はなかった。特に、第2巻『こわれた腕環』は、地下神殿の迷宮の暗闇の描写が延々と続いて「なんだかとっても暗い話だな」という印象が強かった。二年後、第3巻『さいはての島へ』が出ても、書店に並んだ本を何度も見ながら結局手が伸びず、本好きだった私にしては珍しく途中まで読んで結末を知らないままだった。
それから長い長い年月が経ち、2021年の年末から正月にかけて「ゲド戦記」全巻を通して読んだ。
きっかけはAmazonのレビューだった。高評価がずらりと並んでいるのを目にしたのだ。私の遠い昔の記憶には『こわれた腕環』の暗い印象だけが強く残っていた。話の内容はほとんど覚えていなかったから「いったいあれはどういう物語だったんだろう?」という疑問がわきあがってきて、年末年始に「ざっと読み直してみるか」と思い立った。
最初に、第2巻『こわれた腕環』を読んだ。すぐに第1巻『影との闘い』も読み直し、第3巻『さいはての島へ』と4巻、5巻とたて続けに読んだ。一気に読んでみると、緻密に作り上げられた壮大なファンタジーに圧倒されて、ため息とともにつくづく思った。
「第1巻はともかくとして、あの頃の私に、第2巻が理解できなかったのは無理もなかったなぁ」
第2巻『こわれた腕環』は、テナーという少女が主人公だ。亡くなった大巫女アルハの転生と認められた幼いテナーは、五歳で両親から引き離され、墓所と呼ばれる神殿でアルハとして育てられる。十五歳になったアルハは大巫女の地位に就くが、墓所にやってきた魔術師ゲドと出会うことによって、テナーという真の名前と自由を取り戻していく。
物語後半を読みながら私は何度となく思った。
「テナーって、なんだかオウム真理教のアーチャリー正大師みたいだな」
後継者といわれた少女
オウム真理教の教祖麻原彰晃の三女松本麗華さんは、五歳のときアーチャリーというホーリーネーム(宗教名:ウマー・パールヴァティー・アーチャーリー)を与えられて、麻原教祖から後継者だと言われ「正大師」という高い宗教ステージに認定された。そして、地下鉄サリン事件の三年後、十六歳で教団をやめた松本麗華さんは「三女アーチャリー」ではなく、松本麗華という一人の人間として社会の中で生きていくことを選ぶ。
かつてオウム真理教にいた頃、私は十三歳だったアーチャリー正大師と数人で福島県いわき市で一年半ほど生活したことがあった。教団の一部の人たちが起こした大事件の後、麻原教祖と幹部たちが逮捕され、事件などまったく知らなかったその他大勢の私たちは、なにがどうなってこんなことになったのかわからないまま取り残されてしまった。
『こわれた腕環』を読んでいくうちに、私のなかでテナーという少女の運命が「アーチャーリー正大師」と重なっていった。
物語の終盤、テナーは宗教世界の闇から解放され、一度は解放感と喜びに包まれるが、育ってきた世界を離れた今、何も持たず何者でもない自分に気づき自由であることを恐れる。
松本麗華さんも、五歳で麻原教祖の後継者とされ、十六歳で教団を離れ、最愛の父親が作り上げたオウムという宗教世界から脱却しよう、松本麗華という一人の人間になろうと闘ってきたようだ。その苦難は著書『止まった時計』から垣間見ることができるし、彼女の最近のブログ「自由を求めて」というタイトルからもうかがえる。
私は『ゲド戦記』のテナーが好きだ。ゲドと一緒に墓所の暗黒から脱したテナーは、ゲドに与えられた安息地にも留まらず、地に足をつけて生きる生活を一人で選択する(4巻『帰還』)。テナーという少女と「アーチャリー正大師」が重なってしまうのは、オウムというカルト宗教のなかにいた少女が、自由を求めて生きようとすることが、私にとってかすかな希望の光に思えるからなのかもしれない。
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