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チーフタンズ「奇妙な奴ら」

僕が最初にチーフタンズに出会ったのは、1988年に発売されたヴァン・モリスンの「アイリッシュ・ハートビート」だった。

当時僕は21歳の不良大学生。ロックバンドに行き詰まり、ラテン・ジャズのバンドに入れてもらったりした頃だろうか。一通りのロックの歴史は通過したあと、イギリスのニューウェーブに心酔し、最後の方はON-Uサウンドのダブやヒップホップの世界にたどり着いていた。もちろんヴァン・モリソンを聴くために買ったそのレコードに針を落とすと、今まで聞いたことのない雰囲気の音楽が聞こえてきた。ちなみにポーグスの「堕ちた天使」が発売されたのも1988年。アイルランド音楽、というものが一気に僕の人生に流れ込んできた年であった。それまで「アイルランド」といえばU2とか、ビートルズのメンバーのルーツで、ジョン・レノンが若い頃にマス釣りに行ったとか、そのくらいの認識でしかなかった。

ロックミュージックとは全く違う音色、曲の構成、リズムが一定でなく、あるいは無拍子で、しかも聞いたことのないイーリアンパイプやティン・ホイッスルの音色。そして郷愁を誘う東洋的なメロディーライン。

今でもこのアルバムに収録されている「スター・オブ・カウンティダウン」「キャリック・ファーガス」「ラグラン・ロード」といった曲が大好きだ。僕にとってのアイルランド音楽のスタンダードである。

そこから、チーフタンズのアルバムを買い集めた。これがコレクションである。

全然網羅してないが、たくさんある、というのはわかるはず

来日ライブにも何度も行った。初来日だったという1991年9月の「東京ムラムラデラックス版」という細野晴臣プロデュースのイベントにも観に行った。なんと映像が残っている。Youtubeってすごいな。

チーフタンズはその後なんと通算11回の来日を果たしたという。そのうち何回行っただろうか。5回くらいは観ているのではないかな。2017年の最後の公演にも行った。もう聞いているだけで自然に涙が頬をつたったのを覚えている。

先日、フィドルのショーン・キーンの訃報があった。ハープのデレク・ベルが2002年、フィドルのマーティン・フェイが2012年そして、2021年にリーダーのパディ・モローニが亡くなって、もうチーフタンズを見ることはできないのだな、と思っていたが、これで残るメンバーはバウロンのケビン・コネフとフルートのマット・モロイの二人だけだ。

これを機に、と思い家の本棚の飾りになっていたチーフタンズの評伝のページを開いてみた。これがなかなか面白い。

本は1995年にアメリカの人気テレビ番組である「レイト・ショー・ウィズ・デビッド・レターマン」で、ヴァン・モリスンとシニード・オコーナーがチーフタンズをバックにライブで歌う、というエピソードから始まる。ヴァン・モリスンは収録前にウイスキーを飲んでご機嫌で、初めての共演にナーバスになっているシニード・オコナーのパートまで歌ってしまい、しかもステージでよろけてシニードに支えられるという体たらく。映像は無いが、こちらの音源の最後の方に”Oops”というシンニードの声が入っている。シニードが呆れて笑ってしまっているのもわかる。

本を読んで、初めて知ったことも多かった。

ガレク・ブラウン(Garech Browne)、というギネスビール社の御曹司の金持ちがいて、彼がアイルランド音楽に心酔し、当時人気のあったローリングストーンズのメンバーなどを誘ってウィックローのラガラにある城で夜通しパーティを開き、そこでチーフタンズに演奏をさせたり、クラダレコードというレーベルを立ち上げてチーフタンズを始め、伝説のパイプ奏者レオ・ローサムや、詩人のパトリック・カヴァナの詩の朗読のレコードを録音、発売させたりしていたという。いわばチーフタンズはじめアイルランド伝統音楽家にとってのパトロンのような存在である。本によれば彼の容貌は長髪で茶色のアランセーターを着た、ちょっと普通じゃない雰囲気だったという。Googleで探してみるとこんな写真があった。

左がガレク・ブラウン 確かに1950年代として先を行ってた感じがする

1950年代まではアイルランド民族音楽の演奏家にとっては肩身の狭い時代だったという。しかし、1960年代に入り、アメリカのフォークミュージックブームが広がり、アメリカで人気者になったクランシーブラザーズなどを逆輸入する形でアイルランド音楽に注目が集まったのだという。その流れに乗って、あるいはその流れをまさに作りながら登場したのが「キョールトリ・クーラン」というグループである。これはショーン・オ・リアダというアイルランド伝統音楽を初めて舞台に載せた天才音楽家が作ったバンドである。チーフタンズのパディ・モローニはこのグループでソリストとしてプロデビューしている。そこでアンサンブルを学んだパディが、ガレク・ブラウンから勧められて作ったグループがチーフタンズということになる。ショーン・オ・リアダとパディ・モローニは最後までライバルとして微妙な関係であったという。しかしお互いの才能を認め合ってもいたようだ。若くして亡くなるオ・リアダが、ガレク・ブラウンの城に置いてあった古いハープシコードで14の伝統曲を病の身で全身全霊を傾けて録音したアルバムがあり、「オ・リアダズ・フェアウェル」というタイトルがつけられた。その骨董品のようなハープシコードは「ラ」の音が抜けていて、パディ・モローニも携わった編集作業でその音を補ったという。その編集作業が終了したのが1971年の9月、そして10月3日にオ・リアダは息を引き取ったという。こちらがそのアルバム。これは素晴らしい。

そして僕の大好きなブレンダン・ビーハンとの交流も多く語られていて、驚いた。ポーグスのストリームズ・オブ・ウイスキーで歌われているアイルランドの作家である。大酒飲みでアイルランド民謡のレパートリーが1000曲あった、という伝説がある。「忠実な白い背中の雌牛」というゲール語のバラッドを歌うビーハンにパディ・モローニがホイッスルで伴奏をつけたことがあるという。どんな曲なのか、ググってもわからなかった。また、チーフタンズにまだ名前がなかった頃、バンド名としてパディ・モローニが考えていたのは「奇妙な奴ら(The Quare Fellows)」という名前だったという。なんとこれはブレンダンビーハンの処女作の小説タイトルである。結局採用されなかったようだが。

最後に先日亡くなったショーン・キーンの生い立ちとエピソードを紹介して終わりたい。

ショーン・キーンは1946年ダブリン生まれ、両親ともにフィドルを弾く音楽一家だったという。若くからクラシックのレッスンも受けたが、ダブリンの有名なパブ「オドノヒュー」のセッションに通うようになってから、伝統音楽の世界に入って行ったという。その後10代でオ・リアダの「キョールトリ・クーラン」に抜擢され加入する。当時のショーン・キーンは金髪が美しく、オ・リアダは「ギリシャ彫刻みたいな容貌で、天使のような演奏をするフィドラーを見つけたぞ!」と吹聴していたという。一方でパディは結成したてのチーフタンズで、ゲール・リン社に好条件を出されてショーン・ポッツとマーティン・フェイの二人を引き抜かれてしまう。焦ったパディがショーン・オ・リアダに頼み込んでショーン・キーンをチーフタンズのメンバーに入れてもらったという。

1972年の新作「チーフタンズ3」のプロモーションのために、チーフタンズは初めてアメリカを訪れた。コンサートは一回だけだったが、ニューヨークに移ったばかりのジョン・レノンとオノ・ヨーコも観にきたという。アメリカでは現地のアイルランド人から英雄扱いだったそうだが、土曜日に出発して月曜日にはダブリンに帰ってきて、メンバーは皆仕事に戻った。ショーン・キーンも、ニューヨークから帰った翌日、心ここに在らずのまま電信柱に登って電線をいじっていたという。

R.I.P. ショーン・キーン

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