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長編小説 「扉」18


    姉弟対決 一



 姉が我が家を訪れた頃、当の私はビル中の温泉で指圧マッサージに全身トロけていた。巧は風呂から上がった後、既に姿を消していた。
「ねえ、お父さん、歩は?」
「知らないよ、昼過ぎに出て行ったから仕事じゃないか」
「返済のこととか聞いてない?」
「あいつは何にも言わないよ」
「生活はどうなってるの?」
「歩から渡される分で賄ってる。一ヶ月毎に出納帳と余った分を歩に戻すことになっているんだ」
「ふーん、そうなんだ」
 姉の目線は、居間の新しいDVDレコーダーの存在をキャッチしたらしい。
「これはどうしたの」
「つい最近、気が付いたらあったんだよ。歩が買ってきたのかもしれない」
「……よくそんな余裕あったわね」
 言うが早いか、突如姉は禁断の行動に出た。
 二階に上がると、決して開けてはならない私の部屋のドアノブに手を掛けた。鍵など無い。締め切ってある雨戸の数センチの隙間から得る、夕方の微かな光。その薄暗さを払拭するべく、姉は部屋の明かりを容赦なく点けた。やめてくれよ理実さん、それはルール違反だよ。
 姉の目に飛び込んで来たのは、おそらくベッドの上のPSプレイステーションの本体だ。真新しい空き箱がそのまま放置してあった。
 凄まじい勢いで階段を降りる姉の様子が目に浮かぶ。
「何あれ!」
 垂れた丸目を悪鬼の如く吊り上げた姉の風圧に、オドオド目をらす父の様子も容易に想像出来る。
 父の年金の行方と返済方法に合点がいかない姉の猜疑心は、クライマックスだったに違いない。だが私は潔白だ。何故ならPSプレステもDVDレコーダーも、一緒に遊ぶために巧が持ち込んだ物だったからだ。姉に私の友人関係にまで口を挟んで欲しくない。

 そもそも巧というのは、私にとって唯一しがらみが何一つない友人なのである。箱根の瀕死のバイク事故で入院した時に同室になって以来の、たぐいなき男なのだ。
 当時箱根のリゾートホテルでアルバイトをしていた若き日の私は、その晩幽霊が出たと訴える厄介な客とのやり取りで疲れる夜勤を全うし、いつもよりだいぶ早く帰宅すると、絶句すべき信じ難い光景が目に飛び込んだ。
 三ヶ月程前から一緒に暮らし始めていた麻耶が、怯えた丸顔で裸のままベッドにうずくまっている。隣には見知らぬ男、いや、よく見ると知った顔だ。麻耶とのツーリング中に何度か箱根の十国峠で言葉を交わした男だ。名など知らない。何だよこれ! 嘘だろ! 頭に血が上り呼吸を忘れた私は数秒立ち尽くし、込み上げてくる限りの力を右拳に集め、一気に間抜けな裸男に近付き、その左顎に渾身のアッパーを入れた。だが女を寝取られた間抜けは私の方である。
 ヘルメットを掴むと400CCの単車にまたがり、たった今下ってきたばかりの夜明け前の箱根街道を、容赦ないスピードで上って行った。そこから私の記憶は、大学病院の救急救命センターで意識を取り戻すまで、スッポリと抜け落ちたまま現在に至っているのだ。
 ヘルメットは真っ二つに割れ、奇跡的に脳の損傷はなかったが、右顔面骨折、仙骨及び恥骨骨折の股裂状態、右大腿骨骨折……数え切れない程の骨が砕けた。
 ビニール袋に入れられた、血のりだらけの裂かれた私の衣類一式を渡され、失血により助かる可能性は5パーセント未満、助かったとしても仙骨の損傷が激しい為、下半身麻痺は覚悟して下さい、最善を尽くします、と医師に告げられ、家族は覚悟を決めたという。麻耶は丸い顔を蒼白にして病院へ駆けつけたそうだ。そして家族共々、長時間に及ぶ大手術が終えるのを待ち続けていた。
 死神から嫌われている私は、何と5パーセント未満の確率を勝ち取り、一週間後には意識が戻り、病院の白天井を不思議な気分で凝視していた。
 ICUから個室に移り、まもなく二人部屋に移った。一時退院していた難病の母も、私の為に愛のアドレナリン全開だったのだろう。信じられぬことだが、母自身の再入院直前まで姉と共に私の世話に通い続けていた。
 二人部屋の隣のベッドには、すねえぐれて片脚を吊っている私より年長の青年が居た。如才無い母は、隣の青年の母親と喋るようになり毎日が過ぎて行った。
 私は読みたかったコミックスシリーズや、当時爆発的人気であった、卵をかえして育てるゲームを手に入れ、動かぬ身体で5パーセントの命を謳歌していた。腰や脚から突き出ている幾本ものボルトや、眼球出血でボルドー色のビー玉のようになった右目の写真を姉に撮らせ、未来の孫に「お祖父ちゃんはアンドロイドだった」と信じさせることを妄想して楽しんだ。
 お隣さんの退院が決まると「喜ばしいけど寂しくなるわね」と母が言った。その母も再入院のため、不安に後髪を引かれながらも、その後の私は姉に託された。
 研究員だった父は仕事の忙しさからか、殆ど見舞いには来なかったが、私のバイクとの接触車両の相手に、多額の賠償を言われるがままに支払ったそうだ。私の記憶が抜けているのだから相手の一人舞台である。
 それからまもなくして、隣に三尋木巧みひろぎたくみという同世代の男が入った。いつもカーテンを閉めていて、殆ど物音も立てず静かだったが、慣れてくると、腰と脚を固定されて動けない私のベッド脇に松葉杖で近寄り、話しかけてくるようになった。私のように重症ではなかったが、彼には見舞客がまるでなかった。すると彼は天涯孤独なのだと言った。
 彼の誕生と同時に母親が逝き、まもなく父も消え、育ての親の祖母も既に旅立っていた。祖母の死とともに薄かった親戚付き合いも完全になくなった。仲間だと思っていた連中には、罠にかけられ痛い目に遭わされ、周囲からは「親がいないから」と色眼鏡攻撃を食らった。
 だから人は信用しないのだ、だから人との繋がりも敢えて作らないのだ、だから彼女もいないのだと。
 気が付くと、ただ隣に居合わせただけの同室の巧に、私自身も生まれつきの心臓疾患やこれまでの境遇、麻耶の裏切りと自分の間抜け具合を包み隠さず披露していた。それ以来の付き合いなのだ。お互い深い傷の部分で、共に化膿している腐れ縁となったのである。
 巧はたった一人で修羅場をくぐってきただけあって、相談相手には申し分なかった。巧には全てさらけ出せる。私達は良きも悪しきも話せる仲になっていた。
 人嫌いの巧は、私の見舞客がいる時にはカーテンを閉め眠った振りをしていたが、それはそれで私は構わなかった。
 父は麻耶に実家に戻ることを提案したが、「歩君が帰って来るのを待っていたい」と答えたそうだ。悔しいが私は麻耶を失えなかった。だから彼女が待っていたいと言ったことが嬉しくて、裸男のことは汚物とともに下水に流してしまおうと男らしく思っていた。
 だが、麻耶の裏切りなど知る由もない、人の良い愚かな父は、留守を健気に守るという彼女の可愛い丸顔にほだされて、私がアパートに戻るまでの間、家賃と生活費を援助していたのだ。その間好き放題、服や鞄や靴が増え男も増えていった。
 知らぬが間抜け、、、、、、、とは、愛すべき父とこの私のことである。
 死神に嫌われている私は、仙骨が割れたにもかかわらず、歩行可能という驚異の復活を遂げ、不死身の肉体とともに精神状態も回復の兆しがあった。なのにである。
 退院とともに麻耶の素行事実を知り、認めたくないジレンマで精神状態は怒涛の悪化を辿り、私は荒れた。さすがの麻耶も私の剣幕におののいて、ついにアパートを出て行った。ツーリングの時にいつも着ていたジャンパーをわざと、、、残して。そしてずっと私の中に居座り続けたのだ、あざとい丸顔女は。
 そんな退院後、傷心ドン底のままふらりと入ったパチンコ屋で、巧に再会したのだった。心に渦巻いて下水に流れてくれないドロドロの思いを、気付くと巧に吐き出していた。
 それからというもの、時々巧と遊び歩いたり家でゲームをするようになった。絶対失いたくない無二の親友なのだ。姉には関係がない。

 猜疑心旺盛な姉の話題は、新しい機器類疑惑から、佳那の間宮さん情報に移る。
「間宮さんには、すぐに連絡を取った方がいいと思うのだけど、お父さん自身はどう考えているの」
「……出来るだけ早く返したいとは思っているさ、だけど……歩が全部現金で持っているだろ、だからどうしようもないんだよ」
「お父さんから歩に言ったら? 間宮さんだけでも何とかならないかって」
「そんなこと言ったら……」
「え、何」
「いや、何でもない。あいつに一任したから何も言えない」
「ふーん。……最近の歩、何か変じゃない? 借金を返さなくてはならないのに、やたら買い物をしたりして。私も歩にネットの買い物代を返してもらわなくちゃ。今日はもう帰るけど、歩と話し合ってみてね、お父さん」
 私はその晩遅く帰宅して、姉が来ていたことを知り、父に問いただした。部屋のドアが開けっ放しだったので、姉が禁断の我が部屋に入った事実を確信する。非常に煩わしい。



つづく




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