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長編小説 「扉」25


     歩の桜 一


 満開の桜である。城の堀、異世界に通じそうな桜のトンネルをくぐる。足を止め見上げると、何層もの花弁に埋め尽くされた視界の隙間から、空の濃い青が垣間見えた。何処までも続きそうなこの場所で目を閉じると、身体が浮きそうな気がした。左脇に抱えた書類は何だったかな、などと忘我する程静かで幻想的であった。
 最初に逮捕された二人の被疑者の実刑が確定した。執行猶予なしの懲役四年、罰金刑はなしだそうだ。罪のない被害者やその家族の人生を狂わせて、四年で許されるのか。結局被害者は自己解決していくしかないのか。実に腹立たしい。
 堀近くの田沼弁護士事務所を訪れた。損害賠償を請求するために民事裁判で戦ってもらうのだ。既に父の代理人として、私、中嶋歩が承認されているので、父の出番はない。ただ、判決で賠償が被疑者に科せられたとしても、当人に支払える能力がなければ回収が中々出来ない、という不条理な落とし穴がある。解せない。借金してでも払えと思う。こちらは借金まみれの無職男子になったのだ。この責任を取ることなく、四年で復帰だと? 犯罪者寄りの不毛な不平等に絶望し、私は面倒臭い人間を辞め、桜の樹の下で眠りたくなる。
 事件を通して関連する損害額を、細かくかつ読み易く書き留めた渾身の書類を見て、田沼弁護士が感心する。
「解り易いですね。では出来るだけ押してみましょう。相手の反省度と出方次第ですが、複数犯のうちの一人という扱いですから、希望の額面は難しいということは頭に入れておいて下さい」
「もちろんです。田沼先生にお任せ致します」

 弁護士事務所を後にし、再び桜のトンネルの前に立つ。
 私の前を歩いていた足早の女性が、トンネル内でゆっくり止まる。彼女も一瞬忘我したのかも知れない。リュックを背負った初老の夫婦が上を見上げながらにこやかに歩いてくる。若い母親が桜を指さしながら二人の子供に語りかけているのを見ると、無性に百合と我が子等に会いたくなる。何故私はこんなことをやっているのだろう。私はソムリエを目指していたのではないのか。この事件の後始末で一生を終えてしまいそうで、腹の底から恐怖と焦りが湧き起こった。ここから抜け出したい、でなければこの桜の樹の下に埋まってしまいたい。
 杖をつきハンチング帽をかぶった老紳士と、綺麗な白髪しろかみを首の上でスッパリと切り揃えた老婦人が手を繋ぎ、スローモーションのようにゆっくりと、立ち尽くす私を追い越し、トンネルに入って行った。我が愛すべき両親も元気であれば、いずれあのように仲良く桜トンネルをくぐったであろうか。
 この場所は危険だ。戦闘意欲溢れる私を、せんちめーとる・・・・・・・な異世界へいざなってしまう。ここをくぐらずに別ルートで帰宅しようときびすを返した。
 途端、メールを受信した。百合からだ。一月に会った際、無理矢理教えた私のアドレスが功を奏した。いや、桜の魔力か。驚き高鳴る穴空き心臓の脈を整え内容を見る。
 ー理実お姉さんのメールアドレスを教えて下さい
 嬉しい気持ちに水を浴びせられ、何で理実お姉さん? この間は父への電話だし、私を何だと思っているのか。仲介業者などではない。だが繋がっていたい私は、平静を装い返信する。
 ー姉への用件は何ですか
 ー春休み中に倫君に塁の勉強を見てもらいたいのです
 ー了解しました、姉に伝えます。勉強する場所は我が家でいいですか
 ーはい
 桜の魔力などあるわけもなく、何と無味乾燥な展開かとガッカリはしたが、百合との接点は出来たのだ。それに無味乾燥な我が家に塁が来るのは大歓迎だ。悔しいが姉に連絡をしよう。それから父の事件のことは、くれぐれも百合達には一切伝えないように、姉に念を押しておこう。


 百合からの伝言を伝えると姉は渋っていたが、倫は「別にいいよ」と余裕であった。春休みに校内で集中講座があるため、自分の勉強の合間の息抜きになると、如何にも倫らしい返答である。
 塁の部屋の確保は間に合わないが、書道部屋の長机をたたみ、塁のベッドを設置する。父には申し訳ないが、教室の手本書きは、隅に追いやった狭い机上で我慢してもらう。
 私は年甲斐もなく胸をときめかせ、塁を連れて来る百合との再会を待った。ところが、塁を家の前で車から降ろした百合は、そのまま顔も見せずに立ち去ったのである。ひどいではないか。
 私の中の桜の花弁が、一気に突風で散ってしまった……が、塁の背後から現れたのは、惜しみなく愛を注ぎたくなる桜子の小さな顔であった。私の中の桜が満開に蘇る。何という桜子の魔力。彼女は大好きな兄にくっついて来たというわけだ。
 その日の我が家の楽しい夕飯は、倫も加わり豆乳入りの鶏鍋である。ふと父が、昨年の夏に鴨葱鍋になった悪夢の始まりを思い出し少々後悔をしたが、ハフハフしながらグツグツした鍋をみんなでつつく春は幸せである。
 従兄弟同士とはいえ、会ったのは母朱実の三回忌以来であるから、塁は生まれたばかり、桜子は存在すらなかったので、本人達は初対面に等しい。十四歳の塁は照れもあるのか口が重い。普段表情の薄い倫が、静かな声を張って塁を促しているのが印象的だった。
 驚くべきは桜子だ。初対面の倫に絡みつくようにくっついているのだ。十一歳になったばかりの桜子からすれば、十七歳の倫が大人のお兄さんに感じるのか、兄の塁と比べたりしてはしゃいでいる。倫も珍しく笑顔らしい笑顔を見せて独特の冗談を披露し、桜子を惹きつけている。倫の風呂場にまでくっついて行きそうな勢いの桜子であった。私は得体の知れないムズムズしたものを感じた。
 父は突如訪れた孫勢揃いの光景を、三日月のような笑顔で遠慮がちに歓迎し、黙って孫達の会話を心地良さそうに聞いていた。
 連日私は、プロの技も惜しみなく取り入れた腕前を奮って食卓を披露し、おいしいおいしいとたくさん食べる子供達の様子に満腹感を感じていた。書道部屋に組み立てた塁のベッドは、今回は無用の長物となり、居間に三人分の布団を敷いて、中嶋チルドレン強化合宿がスタートした。
 倫が高校の集中講座から戻って来ると、塁は夕食の前後に分けて数学と英語を教わる。その間桜子は不満気だが、私の話し相手になってくれる。このお喋り娘の喋りっぷりが、時々姉とオーバーラップするのには少しばかり溜息が出るが、やはり可愛いものは可愛いのである。桜子も倫に勉強を教わりたいと騒ぐ。そして倫と同じ高校に進学し、将来ここに住むんだと断言する。私の舞い上がりは止まらない。
 ところでこの青春真っ只中の少年達は、何の疑いもなく勉強に精を出している。私の時代とは大違いだ。倫などは良い参考書を見つけたと小遣いを注ぎ込み、ニコニコしているのである。やはり謎の甥だ。少年二人が肩を寄せ合って、勉強にゲームに平和にいそしんでいるのを覗き見て、自分の少年時代がフラッシュバックして目眩を感じた。

 華やかしい小学校時代。学級委員、少年野球のエース、友達も多くそこそこの容姿。そんな最高潮だった私が、急勾配のカーブで谷底に転落するような中学時代を迎えることになる。
 母の入退院は相変わらずで、野球部も穴あき心臓のためやむなく退部。身に覚えのないクラス内の物品紛失事件、プール裏の喫煙騒動。不登校の引きこもりは悪化の一途を辿り、せっかく一時退院していた母や、大学に通い始めた姉の時間と平穏を奪った。姉など私の汚名を晴らすべく、母親に代わって中学に抗議に行ったが、わずか十八歳の未成年の女子など相手にされなかった時代だ。出席日数ギリギリで、何とか受け入れてもらった高校も、万引きを疑われた友人をかばって教員達を相手に反旗をひるがえしたあげく、何故か私だけが退学した十七歳。そして麻耶……

 チルドレン合宿最終日前日、我が愛車に桜子を乗せ、夕食の買い物に出た。
「パパの車って目立つよね、真っ赤で」
「赤がいいってサクが言ったからこの車にしたんだろ」
「そうだっけ、忘れたぁ。サクは赤よりも空色が好き」
「サクは好みが変わったんだな。でも、真っ赤な車で海沿いを走るとカッコいいぞ」
「パパのレストランまで海を眺めながら車で走って行くんでしょ。パパのお店に行きたい行きたい!」
 しまった、墓穴を掘ったか。桜子は勘が良いのだ。
「今度な。今回は塁の勉強が目的だったし、明日は帰る日だから、今度必ず連れて行くよ」
「わかったぁ、絶対約束ね」
 小さな小指と指切りげんまんをした。ほっと一息吐く間もなく、
「サク達が来てから、パパずっと家にいたけど、お仕事はお休みだったの?」
 やはり勘が鋭い。小学生の桜子の洞察力に、三十七歳の父親の私が焦っている。
「今迄休みが取れなかったから、まとめて取ったんだよ」
「ふーん、じゃあ約束だよパパ。ゴールデンウィークね」
「わかったわかった。予定しておくよ」
 誤魔化せただろうか。やはり娘の指摘にはかなわない。無職という事実を初めて恥じた。
 こうして数日間の中嶋チルドレン強化合宿は幕を閉じた。彼らには希望の新学期が待っている。



つづく





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