長編小説 「扉」10
姉弟会議 二
不動産屋の奇襲から三日目。
さすがに行方不明の父を引き延ばすことは難しくなってきた。連日「お父様見つかりましたか」との電話がかかってくる。父を狸寝入りさせているのもそろそろ限界のようだ。不動産屋から、本来来店して受け取るはずだった、キャンセル前の売買契約書類が手続き上届いた。坂上弁護士に相談をした結果、翌日父を伴いトータル不動産に赴くことが決まった。ついに父と不動産屋の再会である。
あれからダックからの音沙汰はなく、特に怪しい電話も個人的一名の他には確認出来ないので、四日間に及んだ父の軟禁を解くことにした。祥子宅から父を引き取り姉も揃ったところで、今後は父の言動に制限を設けざるを得ないことを話し合った。
案件その一。外出は暫くの間控えること。
事件絡みの怪しげな輩達が未だにうろついているとすれば、呑気な父など簡単に捕縛されてしまうだろう。なので、書道教室の出張や史跡案内のボランティアなど、外出して行う活動は全て休むこと。故に書道やボランティア関係には、休む旨を伝えておくこと。
案件その二。生活費の管理。
断れない人の良さで始めた、読みもしない定期購読の旅雑誌、食べもしないサプリメント、飲みもしない健康飲料などの継続は止めること。必要としない物を排除する良い機会だ。そして今後は、出納管理を私または姉に任せること。
そして案件その三。この排除にはてこずった。
父の携帯に一日に十回近くの着信履歴を残す「信哉」と表示される一名の怪しい人物。これは一体誰なのか。父の見え透いた知らん顔が固まる。
「信哉? 知らないよ」
携帯の中には、アクティブな父のプライバシーが詰まっていて、息子としてそれを暴くのは忍びない。しかし今回ばかりは詐欺絡みの見極めもあるため、敢えて侵害させて頂く。とはいえ、この「信哉」で着信してくる相手を、おそらく私は百パーセントの確率で把握している。是非とも今回の事件をきっかけに整理したい一件でもある。
「終日ひっきりなしだぞ、なのに知らないのか」
「…………」
父は全く口を割る気配がない。しぶとい。
すると突然、姉の尖った人差し指が父の郵便物を指し示す。旅行会社からのダイレクトメールの宛名には「中嶋香世子様」と記されている。
「中嶋香世子って誰?」
「……」
「お父さんに聞いているのよ、中嶋香世子って誰?」
「知らないよ」実にしぶとい。
姉も「香世子」が誰なのかを百パーセント承知しているのだ。ただ後ろめたいことがないのならば、父本人の口から告げてもらいたいがために、ジリジリと我々は周りから攻めていたのだ。陰険な子供達である。
香世子というのは、母が逝った後に父が出会った、前歯の欠けたしゃがれ声の、母とは似ても似つかぬ下品な女である。父の同級生の経営する飲み屋で知り合ったらしい。老後を楽しく過ごせるのであれば口は出すまいと思っていた。しかし、私と同世代のニート息子と共に我が家に入り込み、我が物顔で父の作った飯を食う。態度と目つきの悪いその息子が信哉であった。父は香世子の連絡先を、男である息子の名前で登録していたのである。姉はこのような小細工を非常に嫌悪した。
「お父さんの周りでは、知らないうちに知らない人の名前で手紙が届いたり、知らないうちに知らない人の名前が携帯に登録されたりするのね。オカルトだわ!」
遂に父が口を開いた。
「知らないうちにじゃない」
「じゃあ、中嶋香世子って誰なの?」
「だから、あれだ」
「あれって何?」
「だから、理実の嫌いなあれだよ!」
父の逆切れ反撃に対し姉の銃弾が炸裂した。
「あれ、あれって、それは何なの? 物なの? 人なの? 動物なの?」
「だから、理実の嫌いなあれだよ!」
母が逝って三年余り経った正月、小学一年生であった倫を連れた姉が、父が一人で住むこの実家にやって来た。
玄関に出向いた父にいつもの穏やかな笑顔はなく、泳いだ眼で何の用だと言わんばかりに突っ立っている。すると奥から「上がってくればいいじゃん」と、家の主のように濁声で叫んだのが香世子である。この女の存在は、佳那が鋭い洞察力をもって見抜くことで発覚し、もちろん姉も認識はしていた。
玄関で「いや、まあ、なんだ」などと無意味な発言を繰り返す父の背後奥から、
「あたしがいるから入って来れないの! あたしが出ていけばいいと思ってるんだろ!」
機関銃の如き濁声連射の衝撃で、胸やけと吐気を催した姉は倫の手を掴むと、射程距離から外れるべく足早にその場を離れた。
今、姉にその記憶が蘇っているのだ。気持ちはよく分かる。だが姉よ、その辺で記憶再生の一時停止をしてくれ。私などその限りではない。夜中にこの家で、香世子の実体を見ることなく何度も気配に遭遇しているのだ。まさにオカルトなのだ。
あれについてはっきりさせねばならぬ重要事項を父に問う。
「中嶋香世子という人物はこの家に存在するのか」
「…………」
「明日不動産屋に行くんだぞ、真面目に答えてくれ。この家に中嶋を名乗る人間が、俺とお父さんの他にいるのかということを聞いているんだ」
「それはない」
「籍を入れて中嶋を名乗ってる訳ではないんだな」
「それはない」
私も腹の中では姉に劣らずブチブチと切れていた。もし入籍の事実でもあれば、家の取り戻しは私の意思に限ったことではなくなる。私が苦労して取り戻す理由はない。
「もう一度聞くけど、お父さん自身は家を取り戻したいのか売ってしまいたいのか、はっきり答えてくれ」
「……取り戻したい」
「じゃあ、信哉さんともう会わないでくれ」
父には厳しい条件だとは思ったが、不安要素は取り除きたかった。信哉こと香世子が出入りするようになった頃からか、家のファックスに先物取引のような情報が届いていた気がする。いつしか父は「金が無い」というのが口癖になっていた。相当損をしていたのか、それも詐欺の一種だったのではないかと今更ながら思える。年金収入に対し、余りにも金の失い方が激しい。香世子に貢いでいたのか。貢ぐだけの価値ある女には到底見えないが、私は父ではないのでその辺の事情は分からない。
携帯を渡すと、父はアドレス帳から「信哉」を選択し、香世子に電話をかけた。父が話すが早いか、私達にも聞こえるほどの下品な大声が携帯から洩れてきた。数日間、電話に出なかった父への文句だろう。父が体調不良を理由に別れを告げると、投げ捨てたような香世子の濁声が携帯からはみ出した。
「お達者で!」
彼女は父の身体を心配をするどころか、カラスのような喚き声を叩きつけた。父よ、これで良いのだ。いや、今はこうしてもらわないと困るのだ。軟禁から解放された日に、よもや香世子と別れさせられるとは夢にも思わなかったであろう。しかも子供達の目の前で。父にとっては土足でのプライバシー侵害、プライドを踏みつけられる第二の青天の霹靂だったであろう。
明日のトータル不動産との話し合いを終えたら、父には新しい番号の携帯を用意してやるつもりだ。
姉の部屋で、泥土の如き重たい契約不履行の違約金をどう工面したものか、今度ばかりは切羽詰まった真面目な姉弟会議で夜明けを迎えた。
*
朝方三時間ほどの睡眠を摂った私は、ジリジリと射す陽をサングラス越しに睨み返しながら、遅いモーニングコーヒーを求めてコンビニへ出かけた。
事件発覚から六日目の午後、特急列車に乗り込む。会話もないまま禁煙タイムを堪える。父は冷蔵庫の奥で萎れてしまった古根のように、どこを見るともなくじっと動かない。しかし外に出ると私同様、サングラスを着用したりするのであった。
心強い坂上弁護士同伴での不動産屋訪問なので、解約不履行の不安は殆どなかった。担当者武市とその上長が迎える中、スムーズに話は進んだ。書道で鍛え上げた非の打ち所のない文字で、父が再び書類に署名、捺印をする。これで解約のための書類は完成だ。後は違約金の支払いさえ完了すれば家は取り戻せる。支払い方法は坂上弁護士に一任した。ひとまずほっとしたが、あまりにも円滑過ぎて最重要な家の権利証を置き忘れ、不動産屋に引き返す始末であった。用意周到の私としたことが、とんだ失態だ。
どのような理由であれ、たとえそれが詐欺被害であったとしても不動産屋に落ち度はない。違約金の減額などあり得ないことは坂上弁護士に確認済みであった。それでも権利証を手に武市に向かい往生際悪く、
「父が詐欺被害に遭って追い込まれ、このような結果になってしまって……」
そう穏やかに無駄な抵抗を試み、
「御迷惑をおかけしました」
そう心にもない詫びを入れ、トータル不動産を後にした。不動産屋側にしてみれば、辻褄の合わない迷惑千万な客であったろう。だが、黙っていても多額の違約金は支払われるのだから損はないはずだ。そう考えると無性に腹立たしかった。
坂上弁護士とトータル不動産との交渉は、結果、例外なく現金一括振り込みのままで変わらなかった。ただ、今月七月末の振り込み期限を、九月末に延滞金無しで延長するという譲歩があり、いくらかの手立てを考える余裕が生まれた。早急にこの難題に取り掛かる必要がある。
交友関係を希薄にしてきた私にとって、相談相手は、たまに会う友人の巧の他は、ネットの知恵袋的な情報が多くを占めた。職場のオーナーに頭を下げることも考えたが、姉に激しく反対された。
死んだ振りの狸を決め込んでいた父が、遠慮がちにもごもごと口を開いた。
「……もう一度、町子姉さんに頼んでみるか……」
「とにかく九月末までなんだ。キャンセル料以外の諸費用や弁護士費用も必要なんだ。合法的にこちらが支払わなくてはならないものが山積みだよ。出来るならお父さんから親戚に頼んで」
「……わかった」
そう言うと父は町子に電話をするが、やはり繋がらない。父の実弟の保行も、町子からの素早い先回りがあったのであろう、一切繋がらなかった。冷たい兄弟愛である。手段が思いつかず、私も頭を抱えてしまった。
姉の方では、目から鱗のような解決策がないか、愛用のノートPCに目の鱗とともに張り付いていた。詐欺サイトでないかどうかを見極めるのも至難の技だが、ついに一つの方法を見出し、鱗を落とすことが出来そうな姉からのメールを受信した。
ー年金を担保に融資してもらえる機関を発見。信頼出来そうな行政法人。聞いてみる価値あり
父の年金受給額は、人並みに過ごせる生活が保証され、創作活動は勿論のこと、ゴルフや史跡探訪などの趣味にも事欠かないだけの、順風な老後が送れるはずの余裕があった。それだけの収入がある場合、自治体での支援的貸与は不可能であり、民間業者では年齢でつまづき、親戚には背を向けられ八方塞がりであった。姉の提案に賭けてみることにする。
つづく
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