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長編小説 「扉」43


      歩の失速 二



 一月に僅かな賠償金が支払われて以来、判決は出ているにもかかわらず、三月を過ぎても支払いの音沙汰はない。毎月の担保融資の返済だけでも、私の収入からは厳し過ぎる現状であった。町子の電話や来訪にも応対しなくなっていた。必ず返すのだから、少し放っておいて欲しいのだ。
 私では埒が明かないと思ったのか、町子は標的を姉に変え、職場復帰を果たしたばかりの小児科クリニックにまで電話をかけるようになっていたらしい。
 将来、脳科学を専攻すると決めた倫は、志望大学の理学部に合格し、入学手続きと共に大学の寮に潜り込んだようだ。自治体からのひとり親家庭に適用される大学進学支援の貸与で、入学準備を整えたのである。そして、地元から離れた場所で生活した方が、あらゆる意味で安全と判断した姉は、愛する倫を手放す決意をしたのだ。国立大学の寮費は驚く程安価で、食事こそ自炊であるが、充分アルバイトで賄える。学費は学生支援機構と大学独自の二重の奨学金で何とかなりそうだった。姉の抜け目なき執念である。
 入学後、倫は実父の河原氏との初対面を果たしていたようだ。どのような経緯があったのかは知らないが、それまで無関心を装っていた倫が、一度は会っておきたいと思った風の吹き回しの根拠には、我が父の突然のフェードアウトが関係したことは否めない。会いたいと思った時に必ず会えるとは限らない、会っておけば良かったと後悔をしたくない、という倫の深い思いがあったと思われる。
 かくして河原、倫父子の一度きりの対面は、ごく平凡に進学先の大学近くの焼肉屋で実現したのであった。氏にとって、長身の自分よりも少し背が高い倫は、最早出来上がった一人の青年に映ったはずだ。さすがに他人のような息子を眼前にして、酒呑み妖怪の正体を現すことなく、精悍で論理的な文筆家、河原壮介としてのていは守られたようだ。
 父親と初めて会った倫、子供達に会えない父親としての私。二度と我が父に会えない私。全て対照的である。



 四十九日の法要での、詐欺被害による借金のカミングアウトにより、それまで親しくしていた母方の親戚の中には、金を借りに来るかも知れないと邪推し、私どころか姉までも避け始めた者もいて、姉は随分と傷ついていたようだ。
 でも、だからといって、姉が私の家族に同じ仕打ちをする理由にはならない。
 せっかく培った従兄弟同士の絆を、姉は独断でザックリ切ったのである。百合や塁は倫を頼りにしていたし、桜子などは私が嫉妬する程倫を慕っていた。なのにである。彼等との接触が私との接触に繋がると邪推して、縁を切り捨てたのだ。姉の冷酷非道振りに私は怒り心頭である。私の愛する家族を愚弄したことが許せなかった。
 閃輝暗点的フラッシュ、重い扉。

 翌朝目覚めると、洗面台の鏡に放射状のひびが入っていた。そこに映る無数の私の顔。いずれも自分ではない気がする。げっそりとした頬に落ち窪んだ目、白髪まで数本見え隠れしている。愛すべき父とよく似ている三十八歳の自分の顔に怒り、砕かれた鏡を素手で殴ると、拳から新しい血液が滲み、目からは涙が滲んだ。不覚である。

 満開の桜がそろそろ見頃だ。川沿いの桜は準備万端である。塁は無事地元高校に進学、桜子も中学生だ。あの小さな華奢な身体でセーラー服を身にまとううのだろう。こんな大切な節目の時に、父親として何も出来ないなんて、無力過ぎて桜の樹の下に埋まってしまいたい。


つづく




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