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長編小説 「扉」24


     歩の奮起 三

 姉から借りた金を毎月怠らずに返しに行く私を、姉はようやく信用してくれたように思われた。何故姉があれ程嫌がったのか。すっかり記憶が薄れていたのだが、ネットカフェでの巧によって蘇った。彼の記憶力は尊敬に値する。私のメモリーカードのようだ。
「倒産寸前の洋食屋を掴まされた時の負債、親父さんの退職金で賄っただろう。だけど嫁さんと子供の生活もままならなくて、母子家庭でギリギリの生活を送っていた姉さんから、幾らか借りたのに返さなかった。だからじゃないか」
 そうだった。栓が抜けたように次々と姉との確執の過去が蘇ってきた。

 倒産寸前とは知らず、夢見心地で掴まされた洋食屋。その愚かな落とし穴から這い上がるべく、大手電機メーカーの系列会社が経営するレストランに就職した。あのバブル時代に建てられたという荘厳で煌びやかな雰囲気が残る、VIP専用のレストラン兼バー。系列会社役員や関係者の宿泊施設も整っている。レストランは時間帯で一般開放もしていた。
 総合マネージャーから気に入られた私は、三十に満たない年齢で、それまでの年長の先輩達を差し置いて、すぐにレストラン部門マネージャーとして抜擢された。客受けが良く次々と新しいアイディアを提案する私は、男前のマネージャーの信頼を得、やり甲斐を感じた職場でもあった。
 このレストランに姉の絵を展示し、VIPに鑑賞させ、隙あらば私の話術で御購入頂こうと、姉想いの私は思いついたのである。絵描きの道を断念し切れずに、未練がましく細々と描いている姉にとっては嬉しいことではないかと、今思えば私の大いなる見当はずれな思い違いであった。
 マネージャーの積極的な賛同を得て、消極的な姉を何とか説得し、目出たく姉の作品が飾られたレストランで、順調に日々は過ぎていった。
 しかし一年も経った頃、店の金が消えるという怪事件が起こった。あろうことか、私のポケットに入っていた紙幣の数が、消えた金額と一致するという怪現象が起きたのだ。事実無根の私は信用してもらうしかすべがない。無実であるとはいえ徐々に職場に居辛くなる。マネージャーが私をフォローすればする程、私より古くからいる年長のスタッフ達の秘めていた反感が表面化し、ついにVIPなこの職場から、姉の作品をそのままにフェードアウトしてしまった。
 その事実を姉に告げることなく、姉との連絡を絶ったまま月日が過ぎてしまった。
 私がとっくに退職していた事実を父から聞いた姉は、作品の行方を案じ、既に転勤していた男前の元マネージャーにわざわざ同行してもらい、作品を引き揚げた。商談の予定があった数点の作品も、私の突然のフェードアウトにより、話が立ち消えになってしまったのだと、元マネージャーが残念そうに語っていたらしい。

 私のせいで、姉に不愉快な思いをさせたのは事実であった。確かにこんなことが何度もあれば、たとえ阿吽の呼吸が存在していたとしても、姉が私を基本信用していないという事実は認めないといけないのだろう。そういう私自身も、濡れ衣を着せられた過去を思い出し、何だか不愉快になってきた。
 巧に愚痴をこぼしたくなってビル温泉に誘おうと横を見ると、その姿はなかった。私が過去にタイムスリップしている間に帰ってしまったようだ。「一声かけて帰れよ」と独りちた。

 

 三月、律儀に姉に金を返しに行った時だ。
「間宮さんと嵐山さん以外の返済はどうなっているの」
 コーヒーを淹れながら姉が問う。
「河野さんにも百万全額返したよ」
「凄い、どうやって返せたの」
「暮れに不動産担保で五百万借りただろう、それで」
「そっか、嵐山さんに四百万と河野さんに百万か」
「まあそんなところ。山神さんには、毎月お父さんに返しに行かせる」
「山神さんは全く手付かずだったの?」
「サト姉はすぐにそう言うけど、不動産担保と年金担保の返済が重なっているんだから、物凄いキツイんだぜ」
「でも年金で返済して、アユ坊の収入でお父さんを食べさせてあげることは出来ないの?」
「俺さあ、辞めたんだよ。だから収入は年金だけなんだよ」
 ついに私はカミングアウトをした。
「へ?」
 口をポカンと開けた姉の阿保面が父と似ていた。
「……辞めたって何を」
「だからさ、し、ご、と」
「……今辞めてどうするの、それこそ生活に困るじゃない」
「サト姉はわかってないんだよ、どれだけ弁護士とのやり取りや調べ物が大変か。仕事と両立なんて出来ないんだよ。そもそも秋には辞めるつもりでいたんだから、タイミングが重なっただけ」
「じゃあお父さんの年金を当てにして生活しているの?」
「何だよその言い方」
「借金返しながらの年金生活なんて無理じゃないの」
「無理に決まってるよ。だから嵐山さんに借りた」
 更なるカミングアウトである。
「へ? 何を……」
 二度目の阿保面である。
「四百万」
「? それ返したんでしょ、銀行から借りて」
「そう、返して借りた」
「意味不明、どういうこと」
「言葉の通りだよ。嵐山さんに四百万返して、改めて俺が嵐山さんに四百万借りたんだ」
「何言ってるの、じゃあ借金は減っているどころか増えているじゃない!」
うるさいなあ、そうしなければ生活出来ないだろう。嵐山さんがを信用してに貸してくれたんだ。が借りたんだからサト姉には関係ないだろう。これから裁判も控えているから金が余計に掛かるんだよ」
 姉は丸い垂れ目を瞬きもせずに、反論大有りという顔に満ち満ちていた。言葉にならない言葉を発しようと息を吸い込んだままの状態の、姉のわずらわしい阿保面を置いて私はサッサとおいとました。


  姉の疑心暗鬼

 歩が無職になっていたことに不信感を抱いた私は、嵐山さんへの再度の借金に、疑問と猜疑でいっぱいで、父にそれをぶつけました。
「嵐山さんからまた借りたんだって?」
「歩と貴教君の間の話だ。どういうつもりなのか俺にはわからないけどな」
「お父さん、ちょっと歩に意見……言えないか」
「歩なりに一所懸命やってくれているんだろう」
「私も歩に任せきりだからね。でも返せるのかしら。エンドレスな恐怖しかない……」
「その代わりという訳ではないだろうが、書道会の新しい運営方針に全面的に協力するという条件が付いた感じだ」
「どういうこと?」
「筆ペンやボールペン字の教室を開設して、その指導を頼まれた。教えるのはビジネスだと割り切れば構わない。が、嵐山書道会を地域活性の名目で大きくし、地域のブランドとして宣伝するため、売るための作品の量産を求めている。つまり会の運営は、婿さんである貴教君の手の中ということだ。俺にとって創作活動の場ではなくなるんだ。今迄嵐山師匠の意思を継いでやってきたんだ。本来なら脱退したい、でも無理なんだ」
「運営というより経営」
「断れない。辞める訳にもいかない。俺は何のために書に人生を求めたのかわからなくなっちまった……」
「ふーん、交換条件か」
 会長の参謀どころか経営者の傀儡かいらいという図式を、容易に描くことが出来ます。羽をもがれた蛾の堕ちた先が蜘蛛の巣であったということでしょうか。羽の無い蛾など最早何の生き物か分かりません。
 インスタントコーヒーを手に父と向き合った私は、ふと父の左の眉の上の赤い傷を確認しました。
「眉の上どうしたの」
「これか……いや、この間ふらついて柱にぶつけたんだ。歳だな」
 父は傷を隠しながら苦笑いをして、「書道会の人から貰った茶菓子があるぞ」と台所に立って行きました。心なしか足を引き摺っています。父の口からだなんて言葉、初めて聞いた気がします。俺は一生現役だと元気に宣言していた父とはまるで別人です。
 ひよこ型饅頭の包装紙を開けながら、
「お父さん足痛いの?」と聞くと、
「いや、何でもないよ。ふらついた時にひねったんじゃないか」
 まるで他人事です。
「体調が悪い時は遠慮しないで連絡して」
 暫くの間をおいて「わかったよ」と父は答えました。
「桜、近いうちにお城に見に行こうね」
「そうだな。でも目の前の川沿いを見てみろよ。両岸ずっと桜だぞ。ここからの眺めも壮観だ」
 あと数日で満開になる気配を隠すことなく、川沿いの桜は海までの見事な景観を約束していました。


つづく





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