長編小説 「扉」37
姉弟対決再び 一
父の葬儀も滞りなく終え、姉との関係も少しは修復出来るかと期待した。
消極的な姉を連れて、菓子折りを手に葬儀場スタッフへの挨拶に行き、四十九日の法要の相談に寺を訪れた。父の掛かり付けの病院では、主治医に長年に渡る加療の御礼と逝去の報告を済ませた。院内と薬局のロビーには、それぞれ主の居なくなった父の作品「元気」「笑」が掲げてあった。
帰宅すると、葬儀費用の請求書が送付されていた。父の生命保険金で払うべく、父のベッドのマット下から見つけ出した契約内容を再び確認したが、想定される保険金を全額つぎ込んでも足りない。香典は寺への支払いに回したい。故に足りない分の協力は姉に求めるしかない。
何度この作戦は失敗していることか。これでまた姉との仲が拗れることは必至だろうが、背に腹は代えられない。そう思っていた時、町子と祥子が揃って自転車でやって来た。
「道央にお線香をあげに来たよ」
有難いことである。
「歩君、あんた立派になったねえ、随分としっかりして。理実ちゃんも歩君がいれば心強いだろうし、お父さんも安心でしょう」
町子が褒めてくれた。私は嘘か真実か涙を浮かべ、
「伯母さん、父の保険金が下りるまでの間、葬儀費用を貸して頂けませんか。実は……実は昨年父が詐欺被害に遭って、生活が苦しいんです」
褒められて咄嗟に無心してしまった。町子は面食らっていたが、やがて、
「それで去年、道央は右往左往していたのかい。ちっとも知らなかったよ。だけど一体いくら貸せばいいんだい、前に貸した分も全部は返してもらってないんだよ」
「済みません伯母さん、本当に父の保険が下りたらすぐにお返ししますから」
頭を床にこすりつけた。
「ちょっと止めてよ。すぐに返してくれるなら仕方ないね、嫌だけど道央の供養だと思ってさ」
「あ、ありがとうございます!」
かくして私は請求額通りの葬儀費用を、きっちり支払うことが出来たのである。
早速、保険金請求について保険会社に問い合わせてみると、「受取人御本人様でないとお答え出来ません」の一点張りだ。
「もし受取人が請求出来ない状況の場合はどうなるんです」
「該当する理由である場合のみ、保険証書と規定の委任状を提出して頂きます」
「該当する理由とは」
「理由を受取人御本人様に確認をさせて頂くか、無理な場合はその理由が証明出来ることが必要です」
回りくどさに段々腹が立ってきて、無言で通話を切った後、「馬鹿か」と紳士にあるまじき一声を叫んだ。
改めて保険書類を見直してみると、これらはどれも保険証書ではない。肝心の証書が何処にもないのだ。父の部屋中隈なく探したが見当たらない。間違えてシュレッダーに食わせてしまったなんてこと、あの惚けた父ならやりかねないが、まさか……
父顔負けの間抜け振りを発揮してしまった自分自身に腹を立て、私は姉のアパートにまっしぐらに向かった。
アパートのドアが開くや否や、
「保険証書はどこ?」
なるべく穏やかを装いつつも切迫して姉に問うた。不思議そうに訝しむ姉は、
「保険証書って何」と、知らん顔を装う。何度目の姉弟対決であろうか。
「持ってるだろ、お父さんの生命保険の証書」
「知らない。それがどうしたの」
「あのさ、しらばっくれてもわかってるんだよ。おまえ持っているだろう、受取人なんだからさあ」
いきなりのオレの出現に理実は慄いたようだ。葬式も無事済んだことで、油断して歩を部屋に入れたことを後悔したようだ。だがここは理実のホームグラウンド、倫が不在でもオレを追い出さねばと奮起し、何のつもりか手鏡で抵抗を試みようとしていた。
「歩、こっちを見て」
理実がオドオドと言う。アホか、何が歩だ、オレは巧だ。
その時である。携帯が振動した。桜子からの着信である。オレ、いや私はハッとして、目眩に負けじと通話ボタンを押した。実に私自身ややこしい展開になっている。
「もしもしパパ、サクだよぉ。今度の土曜日にママとおじいちゃんにお線香あげに行ってもいい?」
一瞬水中にいるように視界が歪み、耳が遠くなる。
「ねえパパ、行ってもいい?」
「……もちろんだよ。塁は?」
「お兄ちゃんは、お・べ・ん・きょ・う、だってさ」
「そうか、ママも来るんだな。待ってるぞ」
「じゃあねパパ、バイバイ」
私は桜色に包まれ通話を切った。
「桜子が土曜日に来るんだって、百合と一緒に」
「……歩?」
穏やかな私に姉が戸惑っている。
「サト姉、今からうちに来て一緒に保険証書を探してよ」
「……明日でもいい? 倫の夕飯の仕度もあるし」
「うーん、じゃあ明日絶対に来て」
不信感丸出しで眉をひそめる姉に手を振り退散したが、私の心は桜色にご機嫌であった。
とはいえ、ここ頻繁に繰り返す閃輝暗点的蛍光色のフラッシュやブラックアウト寸前の感覚。おそらく私も身心限界、オーバーフローなのだ。疲労感が麻痺して何処まで限界突破してしまうのか分からない、中嶋歩、不死身ならではの疲れ方なのかも知れぬ。
*
翌日姉は約束通りやって来た。動けなかった夏からすると随分回復していて、見た目には全く普通である。職場復帰はそろそろだろうか。
連日事務的な手続きに追われ、うんざりする。
父の心不全は、精神的苦痛による心因性ストレスが要因であることも否めない、という医師の判断が、裁判での判決材料になるのか。また、不動産担保融資を受けている本人が亡くなった場合、相続後も名義を替えて継続出来るのか。率直な疑問を、田沼弁護士に相談しに訪れたりもしていた。
いずれの手続きにせよ、やたらと死亡診断書が必要となる。この際潔く死亡診断書の大盤振舞とばかり、一気にまとめて二十枚程コピーをコンビニでやってのけた。原本をコピー機に忘れて、次の客に呼び止められた時は、死亡診断書を手に照れ笑いをする変な人になっていた。不本意である。
また、何かというと相続人遺族、つまり姉の同意が必要となり、都度姉の印鑑証明や戸籍謄本が必要だったりする。面倒なので、まとめて十通くらい取っておいてくれと頼んだら、「一通いくらすると思っているの」と姉が反論してきた。確かに無駄に出来ない金額もさながら、姉にとっては私への防衛手段だったのかも知れない。もっと信用して頂きたいものである。
さて、姉に来てもらった目的は、父の生命保険の証書を探し出し、受取人の変更を保険会社に願い出て頂くことである。受取人が私になれば面倒がなくなるのだ。
実際見つかる筈のない不毛な捜索が、父の寝室で開始された。机上の積み上がった書類や書籍をパラパラしながら、それらしき物を必死で探す私に対し、姉は父の引き出しを一段一段開けて、ゆっくり奥まで確認している。そのスロウな感じは、私を大いにイラつかせた。
父が逝く前、私の知らぬ間に結び直そうとした父娘の絆の一つの形を、私は推理する。
父は受取人の姉に、おそらく証書を渡しているはずだ。まさか、その保険証書を渡された直後に父の死が事実となるなど、姉はその因果関係に苦しんだかもしれぬ。もし、姉が知らないと言い張るのなら、受取人の責任として、証書の再発行を保険会社に願い出させれば良いだけのことだ。
ただ、実際姉の手に証書が渡っているのかは推測の域を出ず、その見極めが重要である。姉弟の化かし合いが静かに白熱するのだ。いや、これでは我々まで狸のようであるので、言い方を変えよう。姉弟の騙し合い、いや知恵比べである。
寝室内を隈なく探すも当然見つかる筈もなく、
「サト姉、本当に知らないの?」
「知らない。それよりアユ坊、これ見てごらん」
姉が差し出したのは、父が四十年余り勤めていた企業から支給されている、企業ロゴ入りのデイリー手帳である。定年後も毎年送られて来ていた。細かな文字で日記のように何かが書き込まれているが、姉が見せたかったのはその文字群ではなかった。
見開きには、「おめでとう!」という言葉の下に、母朱実を筆頭に、理実、歩、倫、百合、塁、桜子と名前が記され、それぞれの生年月日、その年に達する年齢が書き込まれていた。そして若き日の母の写真と、姉の七五三の時に家族四人で撮った写真が、手帳が替わる度、最終頁が指定席であったように、よれよれになって挟んであった。
既に姉の顔は鬱陶しい程にぐしゃぐしゃである。やっと引いた瞼の腫れを再び復活させんばかりの勢いで、涙腺どころか顔面崩壊させていた。
しかし私は顔色一つ変えずに、
「そんなことより、今は証書を見つけて」と、少々サイコパスを気取り不毛な搜索を促したが、そろそろ芝居も潮時かと思い、
「保険会社に証書紛失の場合の請求方法と受取人変更について、今すぐ聞いて」と展開を試みた。
姉は鼻をグズグズさせながら、その何年にも渡る何冊もの父の手帳を自分のバッグに押し込んでいる。持ち帰るらしい。
「聞いてるのか、そんなことは後にしろよ」
私は苛立ちを強めて言った。
「アユ坊、その生命保険の書類一式貸してくれないかしら。帰ってから保険会社に問い合わせてみるから」
「今ここから電話すればいいじゃないか」
「ここにいると感傷的になって落ち着かないのよ。鼻は詰まっているし目が腫れて字が霞んでよく見えない」
「……わかったよ。必ず保険会社に連絡をとってくれよ。約束だからな、サト姉」
姉が本当に電話をするのか、車で送りがてら見届けたかったのだが、姉はその膨らんだ顔で、長期病欠している職場に顔を出して行くからと言って、歩いて我が家を後にした。その不細工に腫れ上がった顔で、よく外を歩けるなと思いつつも、職場復帰の前兆なのだと希望的推測をした。
私が父のことであれこれ忙しい今、姉に少しでも働いてこちらに回してもらいたいのが本心である。もう本当に頼りは姉だけなのだ、倫が成長するまでは。
明日は土曜日、百合と桜子がやって来る。美味い飯の準備でもしておこう。桜子が「パパのお店のパスタ」などと言い出す前に。
つづく
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