長編小説 「扉」14
束の間の誕生日
まだ星の瞬きが見える午前三時、真っ赤なポンコツゴルフで海沿いを走る。長い一日の始まりだ。
湘南の海、年に一度の地引網の日である。夏休みで地元の子供らも参加する中、店のオーナーの方針で我々スタッフ数名が参加するのである。網を引くわけではない。ケータリングなのだ。とはいえこのイベントは、採れたての食材を用いてその場で調理する、体裁の良いバーベキューともいえる。普段ヒール靴でランチに訪れるマダム達の姿もちらほらと、この日は素足を出して子供らと網を引く。こんな時は父の一件を忘れている。野外活動は得意ではないが、このようなこともたまには良いのかも知れぬ。
ーアユ坊無事?
昼近く姉メールが届く。
ーアユム無事、案ずるな
これほど密に姉と連絡を取り合うなど、父の件が起こらなければなかったであろう。
法外な時間に及ぶ一日の仕事を終えた。我が家から遠くない河川敷で花火大会があるため、一部の道路が封鎖されていたので、回り道をしての帰路であった。
川沿いの私の駐車スペースに、見知らぬ軽自動車が停められている。客か? 仕方なく、父が書道教室名義で借りている生垣に面した駐車スペースに、愛車を頭から滑り込ませる。家に来客はなく、父が一人台所に立っているだけであった。花火見物客の無断駐車確定である。
父と素麺を啜っていると、腹に轟く爆音とともに花火大会が始まった。
幼い頃、家の庭から東の空を見上げると、大輪の花火がよく見えた。その轟音に怯えながらも、父に肩車をしてもらった気がするが……あれ? 違う、病の母に代わり祖母に抱き上げられていたのだっけ。そうか、これが作られていく記憶なのだな。誰か近所の子供が肩車をされていたのを記憶していて、それが自分であったと勘違いしてしまうケース。また、こうであって欲しかったと願っていることが、知らぬ間に事実と勘違いしてしまうケースもあるらしい。断っておくが、私は特にそれを望んでいたわけでは決してない。
食後、腹立ちを抑えて駐車場に向かう。建物が高層化した今となっては、家からは姿の見えない大輪の花火も、この駐車場からは建物の隙間に垣間見える。しかしそのようなことはどうでもよい。問題は未だに堂々と停まっているこの見知らぬ軽車両だ。
個人名が明記してあるその駐車スペースに、当たり前のようにスッポリと納まっている軽自動車の鼻先に、我が愛車を移動させた。明け方三時からのフル回転の一日であったから、帰宅したら寝てしまおうと思っていたのに、すっかり覚醒スイッチが入ってしまった。
断末魔のような轟音が花火大会の終了を告げる。確かにこの派手さは魂を揺さぶる。天界も冥界も人間界も、この時は同じ空を見ているのかもしれない。そんなことを考えながら、車の所有者に「道徳に欠けますね」などと格好良く注意してやろうと待ち構えていた。
暫くすると、家族連れや浴衣姿の若者の歩く姿が見え始めた。花火客がちらほらと戻って来たようだ。その中に、道路を渡りこちらへ歩いて来る小さな子供連れの人影を確認した。果たして従兄弟の直斗であった。彼は佳那の息子で、この夜久し振りの対面になった。
戦意喪失。再び生垣沿いに愛車を移動させながら「気をつけて帰れよ」などと笑顔を向けつつブレーキを踏んだ……つもりだった。
次なる不運の幕開けである。第二の落し穴を自ら掘ってしまった。まさに墓穴である。いきなり他人の邸の生垣に突っ込んでしまったのだ。ブレーキと思って踏んだのはアクセルであった。
夜半九時過ぎ、その勢いは大きな不快な音を立て、バンパーを破壊し、生垣の木を二本押し倒した。高齢女性の独り暮らしの庭付き邸である。何の因果か応報か。私としたことがとんだ大失態である。「駐車場を借りるよ」と一言先に伝えてくれていれば、この事態は免れたはずだよ直斗君、と恨めしく思った。邸の老婦人には、夜半の事故の事実を深く詫びた。
こうして眠らない長い一日が過ぎて行った。自分自身が穴を増やしてしまうとは。
姉に泣き虫メールをしてしまおう。
翌朝の謝罪で、改めて全て対物保険で賄う承諾を得た。老婦人には優しく対応され安堵したが、車輌保険未加入の私は、愛車の修理代金を想像すると目眩がした。
その日心配した姉は、駐車場の現場検証を人知れずしてから我が家に寄ると、父が外に出る所であった。父は生垣邸の老婦人に挨拶をしてくるから待っていろ、と言って出て行った。
冷たい水を一気に飲み干した姉は、外気の熱風に揺らぐカーテンを眺めながら、絡まり続ける心の整理をしようと努力してみる。だが、現状を考えれば考えるほど穴は更に深くなっていく気がしたという。しかし、私の不手際を謝罪に行く父親としての責任を自覚する父を、姉はうっすら感じていたようだ。
だが、連日の惚けた言動をする父の側にいる私にしてみれば、外面が良いだけだ、余計なことはして欲しくない、と穿った見方をしてしまうのである。
「いやあ遅くなっちゃったよ」
ようやく父が戻って来た。
「随分長引いていたけど大丈夫? 拗れているのかと思って心配してたのよ」
「違う違う、話好きなんだよ彼女は、世間話だよ。普段独り暮らしだから喋りたかったんじゃないか」
「話好きはお父さんも同じよ」
既に玄関でサンダルを履いている姉に気付いた父は、
「何だ、もう帰るのか」
「倫の夕飯作らないと」
「じゃあ、コーヒー一杯飲んだら送ってってやるよ」
車中での父は終始和やかで、カーステレオから流れる歌を、音程も気にせずに口ずさんでいたという。この妙なリラックスさは何処から来たのだろうか。父親としての責任ある行動を、今の父なりに取ったことで、平常心を一時的でも取り戻せる満足を得たのであろうか。
*
ーハッピーバースデー、アユ坊!
姉のメールで目を覚ます。その日私は誕生日を迎えた。そして、父の一連の出来事を佳那に話しに行く日でもある。
ランチタイムの片付けを終え、午後五時過ぎに職場を後にした。生垣に体当たりして外れたバンパーを、赤いガムテープで押さえながら海沿いを走るこの切なさ、恥ずかしさ。スタイリッシュな私としては堪え難い状態である。
久し振りに佳那の家を訪ねる。確か最後に訪れたのは小学生の頃だったか、今ではすっかり疎遠になっていた。相変わらずだと思ったのは、真夏にもかかわらずこの家には炬燵が出来ている。
「ウチには、コタツムリが棲息してるから」
疎遠だった時間を感じさせない佳那の明るさで、久々に腹を抱えて笑った。
叔父の樹は、炬燵とストーブをこよなく愛し、静かに毒舌を吐いて地味に笑いを誘う、愛すべき刺繍職人である。年の離れた兄のような樹の後を、小学生であった私は、よく付いて回った記憶がある。バイクの後ろに乗せてくれて、その魅力を教えてくれたのも、このコタツムリの樹であった。
「歩、本当に久し振りだね。何にもないけど夕飯食べていって」
テーブルいっぱいに並べられた料理の数々。気を遣わせてしまったと思ったが、腹の虫は正直だ。
「今日ね、歩の誕生日なの」姉が言うと、
「良かったね」二人は微笑んだ。
何が良かったのかは分からぬが、佳那は料理が実に上手い。それだけでも十分有難いが、ホッとするこの雰囲気は幼少の頃に慣れ親しんでいた家のせいなのか。そうだな、良かったのかな。
書道会で佳那に迷惑がかかったことや、樹にも心配をかけたことを詫び、父が詐欺グループの餌食になった経緯をダイジェストに語った。書道会からの噂や姉が迂闊にこっそり漏らした情報で、少なからず承知しているだろうと思ってはいたが、さすがに二人とも言葉を失い、料理を摘む手も止まってしまった。
「こんなことが身近に起こるなんて信じられない。あなた達にかけてあげる言葉もないよ」
佳那が呟くと、楽しい食卓があっという間に重たい黒雲で覆われた。言葉を失うと、その隙間に重くて粘着質な何かがドロドロと流れ込んでくる。だから、愛すべき父の一世一代の飛んで火に入る夏の愚行を、精一杯の苦笑でその場を凌ぐしかなかった。
花火の夜の生垣自爆の件は、彼らの息子の直斗がきっかけだとは二人とも知らないようで、結局言い出せず仕舞いであった。
その後、姉のアパートで姉の用意したバースデーケーキを倫と三人で食べた。重たい気分のせいなのか、時間が遅いせいなのか、あまり美味いと感じなかった。
「アユ兄、お誕生日おめでとう。なんかちょっと痩せたみたい」
倫はそう言うとゲームの手を休め、静かにケーキを食べ終え、「さあ、休憩休憩」と言いながら自室に戻って行く。これから勉強で一息つくのだという。
「じいちゃんも一緒にケーキ食べたかったんじゃないかな」
ボソッと言い放った倫の一言に、我々は苦笑いを隠せなかった。焼肉屋でブリュレを頬張る父を思い出した。
その晩、姉のPCで融資可能な金融機関を探した。私の古過ぎるPCよりはるかにサクサク検索出来るので、それからというもの頻繁に姉のPCを利用した。そのお陰でやたら融資会社の広告が入るようになってしまったと、姉は露骨に嫌そうな顔をした。
気晴らしにネットショップを見ていると、以前から探していたアニメのDVDボックスを見つけてしまった。欲しい!
「理実おネエさん、ボク誕生日」
甘えてみた。姉はニッコリ笑うと、
「ケーキで精一杯、またいつかね」
あっさりお断りされた。仕方がないので自己負担で購入することにした。姉のアカウントで入ったまま姉名義のクレジット決済で購入し、姉に現金払いすることにした。これが実にハマってしまった。
DVDに始まり、コミックスの大人買い、フランスワイン「シャトー・ヌフ・デュ・パプ」、それから……最初は姉も横目でチラチラと見ている程度だったが、私が姉のアカウントでポチッと購入ボタンを押す度ごとに、笑顔が薄れ口数が減り、遂に「何考えているの、お金が必要な時に!」と怒り始め、ワインケース買いの時には「絶対返してよね!」と悲鳴を上げた。誕生日とはいえ、調子に乗り過ぎた。現実逃避が過ぎた。反省する。
*
残暑、私は相も変わらず様々な金融機関と不毛なやり取りをしながら、年金担保融資の審査結果を待っていた。
父はといえば、昼間何をしているのか全く不明であるが、本人曰く「書」を書いていると。だが画仙紙を睨み据え、使い込んだ愛用の筆を右手に持ったまま、じっと固まっているフリーズドライな父しか想像出来ない。詐欺絡みの件はすっかり丸投げして、私への完全なる依存状態にあるので、自分で考える姿勢はおろか、協力の意思すら見受けられない。それでいてやらなくていいことを行う。一体どういうつもりなのだろうか。
私の帰宅時間に合わせて風呂をため始める。気を利かせているつもりなのだろうが、これが毎晩大変なことになっている。湯を出しっ放しの状態でリクライニングソファーで口を開けて眠っているのである。ディスカバリーチャンネルも点けっ放しである。その間、風呂の湯は果てしなく溢れ出し、何も使われないまま下水の旅に繰り出している。何と無駄なことを。
晩飯は店の賄い飯があると何度言っても、私の分の惣菜も購入してしまう。冷蔵していればまだしも、この季節に常温で皿に鎮座させてあるのだ。私の機嫌を取っているつもりなのだろうが益々損なう機嫌であり、卓袱台があればひっくり返したい。湯の出しっ放し、惣菜の出しっ放し、テレビの点けっ放し、口の開けっ放し、私は閉口する。止めてくれということをわざわざする精神構造がどうにも理解出来ない。そのうち倫にでも分析を頼むとしようか。
そんな苛立ちの残暑を過ごしていた八月末、ようやく年金担保融資の申請が通ったとの通知が来た。大きな金額だが必要とする額にはまるで足りない。それでもこれでようやく計画を立て始めることが出来る。
つづく
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